番外編「海竜亭の戦場厨房と甘すぎる日常」
夜が明けきらない早朝。
世界最大のグルメ商会『海竜亭』の王都本部において、最も活気にあふれている場所、それは巨大な厨房である。
「おはようございます、料理長!」
「おはよう! 今日も一日、美味しいご飯をたくさん作りましょうね!」
元気いっぱいの声で厨房に現れたセレンを出迎えたのは、世界中から集まった数十人の見習い料理人たちだった。
今や海竜亭の総料理長となったセレンの元には、腕を磨きたいと願う人間、エルフ、ドワーフ、さらにはかつてギルドに所属していた元・高級レストランのシェフまでもが弟子入りしている。
だが、彼らの顔には一様に疲労と焦りの色が浮かんでいた。
「り、料理長……この『鉄牙猪』の骨が硬すぎて、ノコギリでも切れません……!」
「こっちの『星炎椒』は、少しでも切り方を間違えると爆発して目に激痛が……っ!」
世界樹や魔境から届けられる規格外の食材たちは、一般的な料理人には下ごしらえすら困難な代物ばかりなのだ。
「もう、貸してみて。こうやって、骨の関節の隙間にスッと刃を入れて……こうっ!」
セレンが愛用の巨大包丁を軽く一閃させると、大の男が数人がかりで悪戦苦闘していた鉄牙猪の分厚い骨が、まるでバターのようにスッパリと両断された。
さらに、爆発寸前の星炎椒も、目にも留まらぬ早業で種を取り除き、美しく均等なみじん切りに変えてしまう。
「おおおぉぉ……!!」
「すごい……なんて腕力と包丁さばきだ……」
見習いたちは、細身の料理長が見せる調理の腕に、ただ感嘆の声を漏らすしかなかった。
「おはよう。仕込みの調子はどうだ?」
厨房の入り口から、空気を凍らせるような冷ややかな声が響いた。
その声を聞いた瞬間、見習いたちの背筋がピンと伸び、厨房内の空気が一気に張り詰める。
現れたのは、漆黒のスーツを身にまとい、鋭い目をした若き商会総帥――タクミだった。
(で、出た……! 王都の権力者を次々と失脚させ、魔王すらも屈服させた『冷徹なる商王』……!)
見習いたちは恐怖のあまり直立不動となり、息をすることすら忘れてタクミの顔色を窺う。
しかし、タクミの厳しい視線がセレンの姿を捉えた瞬間。
その鋭い眼差しは春の陽だまりのように柔らかく細められ、氷のように冷たかった声の温度が明らかに二度は上がった。
「タクミ! 今日は早いのね。朝ごはんはまだでしょ? 新作のスープがあるの!」
「ああ、楽しみにしていた。それと、これをお前に渡しておきたくてな」
タクミは懐から、見事な装飾が施された特製の『魔導包丁』を取り出し、セレンへと手渡した。
「わあっ、これ……すっごく軽くて、魔力が詰まってるわ!」
「俺の『エンジェル投資』で、ドワーフの最高峰の工房に莫大な資金を投じて作らせた特注品だ。これなら、リヴァイアサンの硬い骨でも腕を疲れさせずに切れるだろう」
「ありがとう、タクミ! 大切に使うわね! お礼に、今日のお昼はタクミの大好きな角煮を多めに入れてあげる!」
「本当か? それはありがたい。お前の角煮は世界一だからな」
甘い声で微笑み合う二人。
その極端な変わりようを見た見習いたちは、(……あの恐ろしい総帥が、料理長には見事に尻に敷かれている……!)と、心の中で一斉にツッコミを入れていた。
その時だった。
「ああっ、しまった!?」
見習いの一人が、下処理中の『爆裂きのこ』の火加減を間違え、フライパンから勢いよく発火させてしまった。
ボーンッ! という音と共に、きのこが空中に跳ね上がり、刺激的な辛味成分を含んだ煙が厨房内に広がり始めた。
「ひぃぃっ! ごめんなさい料理長!」
パニックになる厨房。
だが、セレンは慌てることなく動き出した。近くの見習いが火を止める。
「大丈夫よ! タクミからもらったこの包丁のテストにはちょうどいいわ!」
セレンは空中に放り出された爆裂きのこに向けて、新しい魔導包丁を素早く振るう。
シャキィィィンッ!
空中で均等にスライスされたきのこが、絶妙な軌道を描いて別の鍋へと着地する。
さらにセレンは、手元にあった魔境鳥の卵を片手で割り入れ、強火で一気に炒め上げた。
「はいっ、完成! 『爆裂きのこのスパイシーオムレツ』よ!」
危機的な状況を、たった数秒で新作メニューの誕生へと変えてしまったのだ。
「見事なリカバリーだ、セレン。どれ、味見させてくれ」
タクミはフォークでオムレツを一口食べると、目を輝かせた。
「美味い……爆発的な辛味を卵のまろやかさが見事に包み込んでいる。原価率も低く抑えられるし、これは本日のランチの目玉になるぞ。すぐに看板のメニューを書き換えてこよう」
「えへへっ、タクミに褒められちゃった!」
利益の計算をしながら足早に去っていくタクミの背中を、セレンは嬉しそうに見送る。
「……なぁ。俺たち、もしかしてとんでもない人たちの元で働いてるんじゃないか?」
「ああ。総帥も料理長も、色んな意味で規格外すぎる……」
絶大な権力と富を持ちながらも、彼らの根本にあるのは『美味しいものを届けたい』という純粋な情熱。
ドタバタと騒がしくも活気に満ちた海竜亭の厨房は、今日も二人の絆と見習いたちの汗に包まれて開店の時間を迎えるのだった。
◆ ◆ ◆
そして迎えたランチタイム。
王都本部の巨大な扉が開かれると同時に、平民から貴族、さらにははるばる海を越えてやってきた他国の要人や魔族たちまでが、怒涛の勢いで店内に雪崩れ込んできた。
「さあ、ここからが本番よ! みんな、気合を入れていくわよ!」
「はいっ、料理長!!」
セレンの元気な号令に応え、見習いたちも一斉に持ち場へと散る。
厨房は再び激しい戦場と化すが、彼らの動きに朝のような迷いはなかった。
客席からの注文をタクミが次々とさばき、その指示に合わせてセレンが厨房全体を的確に指揮する。
二人の見事な連携に引っ張られるように、見習いたちも自らの限界を超えたパフォーマンスを発揮し、次々と極上の料理を作り上げていった。
営業終了後。
ヘトヘトに疲れ果てた見習いたちに、セレンがまかないの特製スープを振る舞う。
「お疲れ様。今日も最高の営業だったぞ」
タクミからの労いの言葉と、五臓六腑に染み渡るスープの美味さに、見習いたちは自然と笑顔をこぼす。
海竜亭の厨房は世界一厳しく、そして世界一温かい、最高の職場なのだった。




