第9話 麗香 対 老婆
麗香がひかりの体でゆらりと構えると、老婆がしわがれた声で嗤った。
「生意気な小娘には、少しばかり痛い目にあってもらおうかの」
老婆の白髪が、ざわりと蠢いた。
「麗香! 来るぞ!」
俺が叫んだその時、老婆の髪が無数の白蛇となって、麗香めがけて殺到したのだ。
「麗香!」
俺は思わず拳を握りしめたが、麗香は全く動じていなかった。迫りくる白蛇どもが足元まで来た時、軽く跳んで、低く、鋭く蛇の群れをかいくぐり、老婆の腹へ拳を二つ叩き込んだのだ。
「ぐはぁっ!」
老婆は背中を折って一度は膝をつくが、すぐに拳を突き出して麗香を攻撃する。だが麗香はそれを軽く躱した。
「——っ、小癪な!」
その時、麗香の掌底が、老婆の胸元を打つ。
老婆は顔を苦痛に歪めながら、後ろへ跳んだ。
二人の距離は3メートル。老婆は打たれた胸を押さえながら、ハアハアと荒く息を吐いていた。本体がダメージを受けたせいだろう、その分身ともいえる白蛇は、ただの髪の毛へと変化していた。
その様子を見た麗香は、楽しそうに笑った。
「ハハハ、お婆ちゃん、無理しない方がいいよ? 若くないんだから」
それを聞いた老婆は、額に青筋を浮かべて怒鳴った。
「この小娘が! 調子に乗りおって!」
老婆が跳んで麗香に急接近した。拳と蹴りを交互に繰り出して麗香を追い詰めるが、今度は逆に、掌底からの突き、肘打ち、体当たりと連打が飛ぶ。
「何だこれは! 中国拳法か!?」
老婆も必死の身のこなしで麗香の攻撃を躱していく。そしてまたバック転……老婆とは思えぬ、ゴム毬のような身のこなしだ。
「チイッ!」
老婆は苦し紛れに白蛇を飛ばすが、麗香はそれを蹴りで弾き飛ばした。そして、そのまま腹や胸などの急所を的確に突く。老婆は防戦一方だ。
「ぐ……この、じゃじゃ馬が……!」
「ほら! 私を泣かせてみなよ! さあ!」
その時、麗香の肘が、老婆の脇腹を抉った。
「がはッ……!」
老婆が、たたらを踏む。そして、憎々しげに顔を歪めた。
「くッ……このままでは……!」
老婆の顔に、初めて焦りが走った、その時だった。
「——見つけたぞ、ババア!」
老婆が振り向くより早く、闇を裂いて白刃が奔った。
「なッ! お前、蛇髪牢を破ったのかーッ!」
老婆が気配に振り返った時、源蔵さんの刀が、その右肩から心臓めがけて袈裟懸けに、スパッと斬り下ろした。
「あーーっ!」
「源蔵さん!」
源蔵さんは満身創痍だったが、眉は吊り上がり、その目は爛々と光っていた。
「無事だったんですね!」
源蔵さんは大きく息を吐いた。
「無事なものか。えらい目に遭うたわい。……だが、こいつを取り逃がしちゃあ、寝覚めが悪いからのう」
老婆の体が、ぐらりと傾いだ。麗香の攻めで弱ったところへ、心の臓を斬り裂かれたのだ。体からは、どす黒い霊体が靄のように溢れ出ていた。
それを見た俺は、悲しげに老婆を見つめた。
「婆さん……あんたが、奥の部屋にいた黒い霊体の人だったんだな」
だが老婆は、俺と源蔵さんをきつく睨んだ。
「ば、かな……このあたしが……たかが、亡霊ふたりに……」
「たかが、で悪かったのう」
老婆は、掠れた笑いを漏らした。
「……十五年だよ。十五年、あの娘を探した。婆さんの代で途切れたと思っていたのに……まさか、こんな街に隠していたとはねえ」
「婆さんの代……? ひかりの、ばあさんか」
「あの女はねえ、あたしから逃げ切った。……だがね、孫は逃がさない」
老婆の落ちくぼんだ目が、ぬらりと俺を見た。
「もう遅いよ。あたしが失敗したところで、買い手は待っちゃくれない。あの娘の血を欲しがってるのは……」
そこで、言葉が途切れた。
老婆の体が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。そして皺だらけの肌が、さらさらと灰へ変わっていった。あとに残ったのは一房の白い髪だけだったが、強風がそれすらも吹き飛ばしていった。
俺は、目を疑った。
「源蔵さん、話が違う! 霊体を斬られた人間は、傷もなく死ぬだけなんでしょう。なんで灰になるんですか」
源蔵さんは、灰の消えた地面を見つめたまま言った。
「……こいつぁ、とっくに寿命が来とったんだ」
「寿命?」
「血だよ」
源蔵さんは、顎で工場のほうをしゃくった。
「濃い血を啜って、無理やり命を継ぎ足しとったのさ。だから霊体を抜かれた途端、支えを失って崩れた。何十年ぶんも、いっぺんにな」
俺は、ぞっとした。
あの婆さんは、ひかりの血を舐めて、あんなにうっとりしていたのだ。
一滴で、あれだ。もし、ひかりが北港の船に積まれていたら、どんなことをされていたか……。
考えるだけで、腹の底が冷えた。
麗香が、ひかりの体で、ひゅうと口笛を吹いた。
「なんだいジイさん、いいところ持ってくじゃん」
すると源蔵さんは、チラリと麗香を見た。
「口の減らん娘じゃな。……それは、ひかりの体だろう。いい加減、返してやらんか」
麗香はヘヘヘと笑って「もうちょっと」と言った。それから、ふと真顔になる。
「なあジイさん。この組の頭は、どこにいんの?」
「頭?」
「組長だよ。あーしに毒を盛った男なんよ」
源蔵さんは、麗香をじっと見ていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「……お前は今、殺しの顔になっとるわい。悪いことは言わん。やめとけ」
「えー!教えてくんないの??」
麗香は唇を尖らせながら肩をすくめた。
「ちぇっ、つまんねえの」
源蔵さんはフウっと長い息を吐き出すと、刀を鞘へ納めた。そしてその柄に、ちらと目を落とす。刻まれた数字が——「95」から、「96」へと、めくれ変わっていくのが見えた。
「ふう……あと4人で100か」
源蔵さんが、ぼそりと呟く。それを見た俺は、思わず叫んだ。
「あの老婆が現れた時は、源蔵さんの身に何かあったんじゃないかって、心配してたんですよ」
すると源蔵さんは苦笑した。
「老婆はワシを、白蛇で出来た牢屋みたいなものに閉じ込めたんだ。そこから出るのに難儀したが……ちょっとした加勢があってな」
「加勢?」
「上から呪符が一枚、落ちてきてのう……」
源蔵さんは俺の顔をじっと見つめた。
「拾った途端に、白蛇どもが焼けるように縮みおった。……なかなかのもんじゃ」
「呪符……?」
その時俺は、麗香が「呪符なんかも、こいつの血で書くとすごく効くんだ」とか言ってたのを思い出した。
「一体誰が、そんなものを?」
すると源蔵さんは、後ろを振り返った。
「修治。その方はな、お前も良く知ってる人だぞ」
源蔵さんが、顎で路地の奥を示した。
するとそこには薄っすらと、赤い服を着た女が立っていた。
俺の心臓は、にわかに高鳴った。
「朱美?」
すると暗闇にいた女は、少し立ち止まった。俺の言葉に反応したのだ。
考えてみれば、朱美以外に誰がいるだろうか。ひかりが誘拐されているんだから。
暗闇から姿を現した女は、真っ赤なジャケットの下に、ヒョウ柄のワンピースを着ていた。
「修治……」
「朱美……さんんん??」
面影はあった。しかし、十五年という歳月は、彼女を大阪のおばちゃんに変化させていた。
かつては抜けるように白く、細く、儚げだったあの朱美が……。憂いを帯びた眼差しで、いつも、どこか遠くを見ていたあの朱美が。
いや、その面影は確かにある。あるのだが……。恰幅のいい、立派な力士に……いやいやいや。
「何よ、修治! 何か言いたげな感じじゃない」
「いやいやいや……なんだか感動しちゃって……」
俺は言葉を探した。探しまくった。
折れそうに細かった彼女の腰……抱きしめれば消えてしまいそうだった、あの華奢な体は……今や、どっしりと、大地に根を張るような——。
すると朱美は、俺の背中をバシーンと叩いて来たのだ。
「うぷっ!」
朱美は、豪快に腹を揺すりながら笑った。
「あんた、私のこと、太ったとか思ってるんでしょ? 顔を見たらわかるわよ!」
「い、いや、そんなことないよ……ちゃんと面影もあるし……」
そんな失言ばかり言う俺は、また殴られた。
背中を叩かれて、よろけながら、俺はようやく我に返った。
「……朱美。お前、俺が見えてるのか」
朱美の手が、ぴたりと止まった。
「触れることができるのか。俺に」
朱美は答えない。
「なあ、朱美。教えてくれ」
俺は、一歩近づいた。
「ひかりが呪術師の家系だってことも。狙われてたってことも。……それに、お前が呪符を書けるってこともな」
朱美は俺から目を逸らして、路地の奥を見た。夜風が、彼女の赤いジャケットの裾を揺らしている。
そして、低い声で言った。
「あの子は」
「え?」
「あの子は、どこ」
俺は、麗香を——ひかりの体を、指さした。
「そこにいる。無事だよ。……ただ、今は別のやつが中に入ってる。花菱麗香っていう亡霊だ」
「……はぁ? ちょっと待って」
朱美が、ゆっくりと振り返った。
そして、ひかりの顔を見た。
正確には、ひかりの顔をした、麗香を。
麗香が、へらりと手を挙げる。
「どーも。お母さん」
朱美の顔から、血の気が引いていった。さっきまでの豪快な大阪のおばちゃんが、どこにもいない。
「憑いてる……あの子に、亡霊が憑いてる……」
「まあ、そう睨むなって。あーし、いい仕事したんだぜ」
「箱は」
朱美の声が、震えていた。
「箱は、開いてないわね?」
その一言で、路地の空気が凍りついた。
俺は、朱美の横顔を見つめた。
十五年ぶりに再会した元妻は、娘の無事より先に、その言葉を口にしたのだ。
——外から、誰かが蓋を押さえてる。ずーっとな。この子が生まれてからずっと、誰かが手を離さずにいる。
麗香の言葉が、はっきりと甦った。
「……朱美」
俺は、掠れた声で言った。
「お前、箱のことを知ってるのか」
朱美は、長いこと黙っていた。
やがて、絆創膏の巻かれた指を握り込んだまま、低い声で言った。
「……知ってるも何も。あれを作らせたのは、私よ」
「作らせた?」
朱美は頷いた。
「ひかりが生まれて、半年経った頃のことよ」
朱美は、路地の暗がりを見つめながら話し始めた。
「あの子が、夜中に泣くのよ。そりゃ、子供だから夜泣きくらいするわ。でもね、あの子が泣くと——部屋の片隅に、いないはずのものが集まってくるの……亡霊がね」
「亡霊が?」
朱美は頷いた。
「近所の野良猫がね……亡霊が見えるのか、家の周りをぐるぐる回ってるのよ。お札を貼っても効かないし。それを母に相談したら、慌てて家にやってきたわ。そして、一目見て言ったの」
朱美は、緊張した面持ちで俺を見た。
「『五十年ぶりやな』って」
「五十年……」
「うちはね、修治。そういう家なのよ。私は出来損ないだったけど、母は本物だった。……そして、ひかりは、母よりずっと上だった」
俺は、言葉が出なかった。
「一族が、色めき立ったわ」
朱美の唇が、歪んだ。
「あの子の血が欲しい。護符を書かせろ、儀式に使わせろって、電話が鳴りやまなかったわ。……表の連中だけじゃない。裏の連中にも、話が漏れてしまって……」
俺は、灰になって消えた老婆のことを思い出した。
十五年、あの娘を探した——。
「だから母が、封印したのよ。あの子の力を……箱の中にね」
「……お義母さんが」
「三日三晩かかったわ。儀式が終わったとき、母は口もきけなくなってた。命を削って封印したのよ、孫のためにね」
朱美は、そこで一度、言葉を切った。
そして、俺を見ずに続けた。
「……修治。私が、あんたと別れた理由。聞きたい?」
俺は、息を呑んだ。
「あんたが、うちの家と関係なかったからよ」
「……なんだって?」
俺は耳を疑った。
「あんたは、ただの会社員だったから、巻き込みたくなかったのよ」
朱美の声が、震え始めた。
「あの子を狙う連中は、必ず身内を攻撃してくるわ。夫がいれば、夫を締め上げて……あんたを人質にして、子供を渡せって言ってくるのよ」
「だから、姿を消したのか」
朱美は頷いた。
「なんにも言わずに消えてごめんね。言ったら、あんた、絶対に残るって言うもの。そういう人でしょ、あんたは」
俺は、天を仰いだ。
十五年だ。
十五年、俺は理由を知らなかった。何が悪かったのか、何をすれば良かったのか、それだけを考えて生きてきた。
そして、答えは——俺が、何も持っていなかったからだった。
「ひかりには、死んだって言ったのか」
「……ごめんなさい」
朱美は、うつむいた。
「生きてるって言えば、あの子は探すかもしれないから」
「ひどい女だな、お前は」
それを聞いた俺は苦笑した。
「……でも、そのおかげで、あの子は普通に高校に行けたわけだ。テニス部で、コーチに怒鳴られながらな」
朱美の肩が、びくりと跳ねた。
「あんた、時々、学校に来てたのね」
朱美の両目から涙が溢れた。
「ごめん、修治……」
俺は首を振った。
「理由がわかっただけで、十分だ。それより朱美。その箱は今、どうなってる?」
朱美が、顔を上げた。涙で化粧が崩れていた。
「……ヒビが入ってるんでしょう。麗香さんが入り込めたんだから」
「ああ」
「母は、三年前に寝たきりになったわ。もう、あの封印を支えきれてないのね」
朱美が真剣な眼差しで俺の目を見た。
「近いうちに、あの石の箱は割れるわ。あの子の中でね」
その時だった。
夜の底から、車のエンジン音が、いくつも重なって近づいてきた。




