第7話 拳法の達人
源蔵さんが老婆を引きつけてくれている間に、俺はひかりを連れて出口へと向かっていた。
1階に人影がないことは、先に降りて確認済みだ。逃げるなら今しかない。そんなことを考えながら周囲を警戒していると、階段の上から、足音が転がり落ちてきた。
「カスミ、マリ、お願い、もうちょっとだけ頑張って!」
ひかりが、二人を腕にぶら下げるようにしながら降りてきた。二人の足取りは重く、顔は土気色だった。あんな場所で監禁されていたせいだろうか、歩かせるだけで精一杯だった。
そして、ひかりの頬に、細い赤い筋が走っているのが見えた。
あの老婆が爪でつけた傷だ。
あの老婆は、あかりのことを、いい血だと言っていた。また「こんなに濃いのは、何十年ぶりかねえ」とまで言っていたのだ。
老婆が血を舐めたときの、あのうっとりとした顔を思い出してしまって、俺は少し渋い顔になった。
「こっちだひかり……シャッターの脇にあるアルミの扉だ」
俺が手を振ると、ひかりは頷きながら向かってくる。そしてひかりが扉を押し開けると、夜の路地が、ぽっかりと口を開けていた。
「ねえみんな……外よ!」
3人は顔を見合わせて、わずかに微笑んだ。だが、喜んでいる暇はない。俺はひかりに声をかけた。
「ひかり。次の交差点を左へ曲がって、駅へ向かって進むんだ。……人混みに紛れろ!」
ひかりは大きく頷くと、カスミとマリを励ましながら歩きはじめた。3人が、もつれる足で走り出すと、俺はその脇を並走した。
その時である。
背後で、けたたましい音が爆ぜた。
振り返ると、工場の扉を蹴破って、3人の男が飛び出してきたのだ。
剃り込んだ眉に、着崩した派手な柄のスーツ。ノッポとデブと、チビのヤクザである。だが、ヤクザに追われること以上に、俺を青ざめさせたものがあった。
それは男たちの足元に、黒い靄のような影が漂っていたからだ。この男たちもまた、多くの人を殺して来たのだろう。そんな亡霊がキリキリと木のこすれるような音を立てながら、男たちに引きずられてくる。
その数は10体じゃ済まなかった。少なくとも、20から30体ほどの亡霊が確認された。
「おい、逃がすんじゃねえぞ!」
ノッポが怒鳴った。
「船は今夜だ! 北港に着くまでに、あの女だけは連れ戻せ!」
俺は前を向いて叫んだ。
「ひかり、走れ! 止まるなッ!」
俺は怒鳴った。だが、カスミの足が急にもつれて、ひかりとともにしゃがみこんでしまったのだ。
「きゃっ……!」
「だ、大丈夫?」
転んだカスミを、ひかりが慌てて抱き起こす。その数秒の間に、1人のヤクザが追いついて来た。恐ろしく足が速いチビのヤクザだ。もう、目の前まで来ている。それを見た俺は、ヤクザの前へ飛び出した。
「うおおおッ!」
伸ばした腕を男の体に突き刺して霊体に触れると、男が白目を剥きながら道路へ倒れ込んだ。
「ぐ、がッ……⁉」
「おおおおっ!」
俺は右腕を、ズブズブと体の奥へと突き刺していく。そして指先に心臓が触れた。
「良し、掴んだぞ」
手の平に生温かい手応え……この男の魂が、俺の拳の中で脈打っている。俺はそれをゆっくりと引き摺り出して行った。
紫色の霊体が、ズルリと体から離れていく。
その時、視界の端に映った自分の手首に、俺はぎくりとした。
指の付け根から先が、薄く——紫に、染まりかけている。
『憎しみに呑まれて人を手にかけりゃ、お前の霊体もそうやって濁っていく』
源蔵さんの声が、耳の奥で鳴った。
「……くそっ」
俺は掴んだものを、思わず放しかけた。
その一瞬だった。
周囲にいた亡霊どもが、いっせいに沸き立った。キーキー、ギリギリと耳障りな音を鳴らし始めたかと思うと、俺たちめがけて殺到してきたのだ。
「うわっ! 待て! 俺じゃない!」
亡霊どもは俺とチビとを四方から取りついて、体のあちこちへ噛みついてきた。
「ああっ! くそ!」
俺は腕を振って追い払おうとしたが、もう人間の意識を持たない彼らには、言葉もなにも通じなかった。ただ冷たい無数の手が、俺とチビとの霊体をひっかき回した。
「ぐ、おおお……ッ!」
その中から、一際でかい影が、ぬうっと立ち上がった。格が違うのか。ぎらつく眼を俺に向けたかと思うと、裂けた口をガバッと開けた。そして、俺の肩めがけて噛みついてきたのだ。
「あああ痛ッ!」
肩に激痛が走った。霊体がぎちぎちと軋み、引き千切られそうになる。
思わず、掴んでいた心臓から手を離してしまった。チビはぐったり倒れたが、止めは刺せていない。俺は亡霊に群がられて、身動きが取れなくなってしまった。
「お前らの仇は俺じゃねえ!」
その時、通りの奥でひかりの悲鳴が聞こえた。俺が目をやると、ひかりがノッポのヤクザに捕われそうになっていたのだ。
「ひかり!」
「お父さんッ!」
ひかりは叫んだ。
もう一人のヤクザが、カスミとマリの髪を掴んで黙らせていた。抵抗しているのはひかり1人だ。
「離して! 離してよ!」
ひかりは猛烈に暴れたが、ノッポの力は伊達じゃない。俺は身動きが取れずに焦っていた。
その時。
もみ合いで頬の傷口が開いたのだろう。ひかりの頬を伝った血が、一滴、アスファルトへ落ちた。
——ぴちゃり。
小さな、音とも言えない音。
だが、俺に群がっていた亡霊どもが、いっせいに動きを止めた。
「……えっ?」
キリキリという軋みが、やんだ。無数の虚ろな眼が、俺から離れて、ひかりの足元の、たった一滴へと向く。
そして、亡霊たちは、じりじりと後ずさった。
まるで、火に近づけられた獣のように。
「なんだ……なんなんだ、こいつら」
俺の肩に噛みついていた大きな影までもが、口を離して身を引いていく。
わけがわからなかった。
だが、そのおかげで俺の体は自由になった。
その時だった。
ひかりの動きが、急にぴたりと止まった。さっきまでの必死の形相が嘘のように消えて、ヤクザに腕を掴まれたままうつむいている。
「おい、なんだ急に……返事しろよ、コラ」
ヤクザが、苛立って腕を揺すった。
前髪が表情を隠して、ひかりの顔色がよくわからない。ヤクザが激しく腕を揺さぶったとき、ひかりの頭がぐらりと持ち上がった。
「あっ!」
ひかりが掴まれていた右腕を上げたかと思うと、そのノッポが吹き飛ばされたのだ。ノッポは2メートルほど先の地面へ、背中から叩きつけられた。
「お、おい、ひかり!」
俺はぞくりとした。それは、ひかりの顔だが、ひかりじゃなかった。
目つきがまるで違うのだ。それはギラギラと刃物のように研ぎ澄まされた、戦う者の目だった。口の端が、すうっと吊り上がる。
「——そこを退きな。その子たちの髪を引っ張るんじゃないよ」
ひかりの口から、聞いたことのない声が漏れた。それは低くて艶のある女の声だった。
「あぁ? てめえ、舐めてんのか!」
ヤクザが眉をひそめたその瞬間、ひかりの体が消えた。
一瞬にして男の懐に潜り込んだかと思うと、低い構えから、男の顎へ掌底を叩き込んだのだ。
「がッ!?」
ノッポはそのまま、膝から崩れ落ちて地面に倒れた。それを見ていたデブのヤクザは、カスミとマリの髪から手を放して「そこでジッとしてろ」と怒鳴りつけた。
「お前、よくもやってくれたな!」
懐から短刀を取り出すと、それを鞘から引き抜いた。青白い刃がギラリと光った。
「ひかりっ!」
俺は思わず叫んでいたが——ひかりは余裕の態度で笑っていた。
「いいねえ。刃物か。久しぶりだよ」
それを聞いた俺は激しく動揺した。
「ひかり! 何が久しぶりなんだ!」
そんな親の心配も知らず、ひかりはデブを見下ろすように腕を組んで笑った。
「あたしを殺れると思ってんのかい。……この体で、何人ぶっ潰してきたと思ってんだ」
「お前みたいな小娘に何ができるってんだ!」
デブが短刀の切っ先をひかりに向けた。だがひかりは、その刃なんか何も気にしていなかった。むしろ、着ている服に血がついていることを気にしている。
「ま、この姿だとわからないか……」
ひかりの唇が、ゆっくりと吊り上がった。
「私の名前は、花菱麗香。10日前、お前らの組長に毒を盛られて死んだ女だよ」
「は……花菱、麗香だと⁉」
デブの顔から、血の気が引いていく。
それを聞いた俺はびっくりして、ひかりの顔を凝視した。自信満々に腕を組んで、ヤクザを怯ませるその雰囲気。確かにひかりに出来ることではない。
「誰なんだ、お前?!」
俺は信じられない思いで、ひかり……いや、麗香を見つめた。




