第5話 お父さんの馬鹿
俺は鉄格子を潜ると、ひかりの前まで歩いていった。
いつになく、俺は緊張していた。なぜなら、あの子が俺の娘だってことを思い出したからである。
あの子を死なせたくない。
その思いひとつで亡霊と化し、俺はこの世に留まっていた。考えてみれば、それ以外に命を賭けて救うことなんてあるだろうか。好きな女の子、大切な友人……どれも命を救うに値するものかもしれない。
けれど、自分の子供ほど、命をかける存在があるだろうか。たとえどんなに娘から嫌われていようとも、俺は必ずヤクザの元へ飛び込んだに違いない。
だが、彼女が俺のことをどう思っているのかは別問題である。母親が俺のことをどう言っていたか、それを彼女がどうとらえていたかわからないからだ。それだけに、俺は緊張しながら彼女の前に立った。
そっと、膝を折ってしゃがむと、彼女と目線を合わせた。
ひかりは座ったまま、静かに俺を見上げている。俺は微笑んだ。
「ひかり……君は……俺が、見えるんだな」
「うん」
ひかりはこくりと頷いた。
「ずっと、見てた。そこの……はめ殺しの窓から。さっき、目が合ったでしょう」
「ああ。そのお陰で、ここへ来ることが出来た」
昼間、工場の2階からこちらを窺っていたのは、やはりこの子だ。
「死んだと思ったのに、なんで生きてるのって……思った」
「いや、死んでいるのは確かなんだ」
俺がそう言うと、彼女は首を振った。
「そうじゃないの。生きているかじゃなくて……お母さんからは死んだって聞いてたから。でも、運転免許証を見てわかったの。お父さんは……」
ひかりは言葉を詰まらせた。
「さっきまで、生きていたんだって」
ひかりは両目から涙を溜めて、一気にあふれさせた。
「お父さんの馬鹿……」
ひかりが肩を震わせて泣き始めた。それはだんだんと大きくなって、やがて大きな口をあけて泣き出した。俺はどうしたらいいのかわからなかった。
「どうして私と会うのが死んでからなのよ!」
ひかりは顔を真っ赤にして泣きじゃくった。俺はその姿を見て、両目に涙を滲ませた。
その瞬間、俺には分かったのだ。俺はこの子を救うために、この世に留まったのだということを。
「母さんから、何も聞いてなかったのか?」
ひかりは泣きながら小さく頷いた。
「名前だけ……。だって死んだことになってたから」
するとひかりはしぼり出すように言った。
「お父さんは、わたしたちを捨てたの……?」
ひかりは泣きながら、俺をじっと見つめてくる。俺は首を振った。
「捨ててなんかいないっ。捨てるもんか……」
ひかりはその言葉を聞いて、ハッとした顔で俺を見た。
「お父さん!」
ひかりが俺の胸に飛び込んで来た。
「ずっと会いたかった!」
俺の目に涙が溢れかえった。そして彼女を強く抱きしめた。俺の腕が、彼女の霊体に触れた。
心と心が触れ合う。
そんな濃密な親の愛情が、霊体同士が触れ合うことで、ひかりの胸の中に溢れかえった。ひかりの両目が大きく見開かれた。そして涙は頬を流れ続ける。
ひかりは叫んだ。
「ああ!わかったわ!今……何もかもわかったの!……ああ! お父さんは私を捨てたんじゃなかったって!」
俺は彼女を抱きしめた。彼女を強く抱きしめると、彼女の様々な感情が流れ込んでくる。
「ああ、ひかり……辛い思いをしたんだな……ごめんよ……」
ひかりは首を振りながら泣き続けた。
俺はもう、涙を拭うことも忘れていた。赤ん坊の頃以来、抱いたことのなかった我が子が、今俺の腕の中にいる。
俺は思った。ああ、出来ることなら、生きている間に抱きしめてあげたかったと。
その時だった。
シュルシュルッという音が聞こえたかと思えば、俺の体に電流が流れるような衝撃が走った。
「あああああ!」
俺の四肢に、柔道の帯のようなものが巻き付き、宙へ持ち上げた。
「お父さんっ!」
ひかりが立ち上がって腕を伸ばすが、俺の体を掴むことは出来なかった。
すると、どこからか帯がもう一本飛んで来て、ひかりの体をぐるぐる巻きにする。
「キャアッ!」
「ひかり!」
俺は帯が飛んで来た方を睨んだ。するとそこには丸顔の小さな老婆が立っていた。白いキラキラしたワンピースに、黒いサングラス。毛髪量が多いせいなのだろうか、白髪を頭上で大きくまとめていたので、その姿は福禄寿のようであった。
「いきなり2階の亡霊どもが消えたと思ったら、こんな大きなネズミが入り込んでいたとはな!」
老婆は黄色い歯を剥いて笑った。




