第4話 死者たちの復讐
源蔵さんは、俺の肩を引いた。
「修治、やめろって!」
「なんでですか!」
「汚れとるぞ、お前!」
俺は、はっと手を止めた。怒りで赤く塗り潰されていた視界に、源蔵さんの厳しい顔が割り込んでくる。
「お前、自分の手ェ見てみろ」
言われて、男の胸に突き入れた自分の腕に目をやる。指先が薄く、紫色に染まりかけていた。あの、悪人の靄と同じ色に。
「ぞっとするだろう。憎しみに呑まれて人を手にかけりゃ、お前の霊体もそうやって濁っていく。やがては紫になり、黒くなり……そうやってお前自身がな、ワシが斬って捨てている、化け物になっちまうのさ」
俺は、反射的に手を引き抜こうとした。
「待て、引っこ抜くんじゃねえ」
源蔵さんが、すっと俺の横に並んだ。
「お前が手を下す必要はねえ。修治、周りをよく見てみろ」
言われるまま、俺は薄暗い広間を見回した。
そして——背筋が、凍りついた。
いつのまにか、フロアは亡霊で埋め尽くされていた。男も、女も、年寄りも、若者も。皆、輪郭が滲んで、足が床に着いていない。虚ろな目をした無数の霊。その全員が、声もなく、頬傷の男一人を、じっと睨みつけていた。
「源蔵さん……こいつらは、一体」
源蔵さんはゆっくりと周囲を見回してから、低く言った。
「おおかた、この男に殺された連中だろうよ」
俺は顔を青ざめさせながら、周囲を見回した。源蔵さんが俺の目をジッと見て来る。
「浮かばれずに、こいつに憑いていやがるんだ。海の向こうへ売られて、二度と帰れなかった連中も混じってるかもな」
その言葉に、霊たちが、ザワザワと揺れはじめた。恨みが、空気を重く震わせる。キリキリという奇怪な、木々が擦れるような音があちこちで鳴った。
「いいか、よく聞け」
源蔵さんが、俺の耳元で囁いた。
「その心臓をな、ゆっくりと引き摺り出してみろ」
「そんなことしたら……こいつ、死ぬんじゃ」
「死ぬかよ」
源蔵さんは、フンと鼻を鳴らした。
「お前が触れてんのは、肉の心臓じゃねえ。こいつの霊体だ。お前にゃ、それしか掴めねえ。引き摺り出したところで、肉体にダメージはない——ま、出て来た霊体が壊されたら、話は別だがな」
源蔵さんはそういうと、振り返って周囲に漂う亡霊たちを見た。
「あとは、こいつらの仕事だ」
俺は、唾を呑んだ。
そして、男の胸に埋まった腕に、ゆっくりと力を込めた。掴んだ熱い塊を、手前へと引いていく。
ずるり、と、男の背中から紫に染まった男の霊体が出てきた。
「あああ……」
引きずり出されるにつれ、男の白目を剥いた顔が、まるで魂を抜かれるように、虚ろになっていく。
男の体から、別の体が分離して、剥がれ出てきた。
「あ……あ……」
男の肉体が、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。肉体はもう動かない。
だが、紫の靄がかかった男の霊体は驚いた様子で周囲を見回していた。無数の亡霊に囲まれた男は、剥き出しの魂を晒しながら、小さく震えている。
「ああ……何これ……」
キリキリと、奇怪な、木々が擦れるような音があちこちで鳴った。その声はまるで、亡霊たちが会話しているように思えたが、源蔵さんは首を振った。
「あいつらは会話しているんじゃない。罵っているんだ。長い間……この時を待っていたんだからな」
俺は青ざめながら、亡霊たちを見ていた。
手のひらには、あの脈動の名残がまだあった。そして、さっきまで俺の頭を支配していた怒りも不思議と消えていた。
彼らはやがて壊れたバイオリンのような不愉快な、耳障りの悪い音を立てながら、ゆらゆらと動き出したのだ。トタンを貼った壁か震え、鉄格子がガタガタと音を立てる。
それを見ていた頬傷の男は、耳を塞ぎながら叫び声を上げた。
「ひ……ひいいいっ! 許してくれぇ!」
その瞬間。
無数の霊が、いっせいに動いた。頬傷の男の霊体に、何十という手が、いっせいに伸びたのだ。
「やめろ、来るな、来るなあっ!」
頬傷の男は亡霊に、腕を、足を、首を掴まれて、地の底へ引きずり込まれるようにもがいていた。
「あああっ! 助けて! お願い! ああ!」
恨みの渦が、男を呑み込んでいく。やがて男の姿は、無数の霊の中に沈んで——見えなくなった。
もうれつな霊風が吹いて、俺と源蔵さんの髪や服をバタバタと揺らした。
亡霊たちは、渦のようにぐるぐると回った。キリキリという亡霊たちの叫び声が高鳴る。男の紫色をした霊体は、猛烈な灰色の渦に巻き込まれながら床下へと吸い込まれて行った。
渦の中心から「あああ!」という男の断末魔の叫び声が聞こえてくる。
その叫び声が聞こえなくなった時、周囲を舞っていた紫色の霧が晴れた。そしてはめ殺しの窓の外から、光が差し込むのが見えた。
「あっ……光が……」
「ああ……あの数の亡霊が成仏したんだ。天も道を示したんだろうよ」
俺が窓を覗き込むと、夜の空の雲間から、一筋の光が降りて来ていた。それは本当に不思議な現象のように思えた。
「すごい……奇跡みたいだ」
「すごいが、誰もが見れるってものじゃない。お前も死んだから見えてるだけだ。いつかお前にも、ああした光が導いてくれるはずだ」
源蔵さんは俺の顔を見て言った。
「行ってやれ」
源蔵さんが、顎で鉄格子の方をしゃくった。
「お前にとって大切な真実がそこにあるんだろう」
俺は頷いて振り返った。そこには窓辺の少女・ひかりがジッとこちらを見ていた。俺はその顔を見て、愛おしい気持ちで胸が一杯になった。
俺は微笑みながらゆっくりと、ひかりのもとへ歩いていった。




