第3話 組のアジト
俺と源蔵さんは、廃工場の前に立った時、夜が、藍色の闇となって町に降りてきた。
錆びたトタンの壁に、割れた窓がいくつも並んでいる。昼間、あの少女が顔を覗かせていた2階の窓は、今はただ黒く沈んでいた。
「待て」
源蔵さんが、すっと腕を上げて俺を制した。その目は、壁の一点を射抜くように見据えている。
「中に居やがる。悪党どもが、5,6人」
言われて、俺も壁の向こうへ意識を向けてみた。すると——見えた。トタン越しに、ぼんやりと滲む人影が5つ。そのどれもが、紫色の靄をまとっている。
源蔵さんの言っていた、悪人の色だ。
「5人……」
「それだけじゃねえ」
源蔵さんの声が、一段低くなった。
「奥に、もう一つ大物がいるぞ」
その視線をたどると、工場の最奥に、ひときわ濃い影があった。紫をもっと煮詰めたような、底のない黒。見ているだけで首筋の産毛が逆立つ。あんなものが、人の中に入っているのか。
「今は、あれには触らねえ」
源蔵さんはそう言うと、壁へ歩み寄り、身を沈めるように壁をくぐっていった。俺も後を追う。冷たく湿った膜を抜けるような感触のあとに、油と埃の匂いがした。
壁や天井に何かいる。俺たちをジッと見ているのだ。俺が顔を上げると、木の擦れるようなキリキリという音を立てた。俺の顔は青ざめてしまった。
「バカ、あんま見るな」
「なんですか、あれは?」
「亡霊さ」
「俺たちと同じ亡霊?」
「ここにいるヤクザに殺された奴らだろう。恨みが深くて成仏出来なくて、取り憑いているのさ」
「こんなにたくさん……」
「ああ……ここはかなり危険だ。奴ら、相当殺してきてるぞ。……着いてこい、修治」
源蔵さんは足で床を蹴ってふわりと浮き上がってた。そしてそのまま2階へ、意思のままに浮かび上がる。
「何してんだ、早く来い」
「あ、はい」
俺も床を蹴ってふわりと浮き上がる。うまく制御出来ずに壁へ近づくと、先ほどの亡霊たちがキリキリと音を立てながら集まって来る。
「ああっ!」
「バカ! 亡霊を刺激するな!」
「だって、これまで飛んだことなんかないから!」
俺は壁をドンと蹴って、天井に向かって浮き上がった。
音に驚いた亡霊は、キリキリ、カシャカシャと音を立てながら離れて行った。
俺はその隙に天井を抜けて、2階のフロアへ上がった。俺は凍りついた。
そこには簡素な鉄格子で仕切られた一角に、3人の若い女が座り込んでいたのだ。誰もが膝を抱え、俯き、口をきかない。怯えだけが、澱のように床へ溜まっていた。
「……なんだよ、これ」
驚いた俺の様子を見た源蔵さんは、吐き捨てるように言った。
「人身売買だ」
「人身売買だって?」
源蔵さんはフンと鼻を鳴らした。
「攫った女を、船で海の向こうへ流すのさ。この近くの北港に、ロシアからの船が入ってくる。積み込まれちまえば、もう二度と戻ってこれねえ」
俺は鉄格子の中をジッと見た。3人の女の子は、暗い気持ちに押しつぶされそうになっていた。そして、いちばん奥の女の子を見た時、俺の息が止まった。
あの子だ。
昼間、工場の窓からこちらを覗いていた、テニス部の少女。膝に顔を埋めるようにして、じっと動かない。その細い手首に、赤いミサンガが結ばれている。
なぜだろう。それを見た瞬間、胸の奥が締め上げられるように痛んだ。理由は分からない。分からないのに、体だけが覚えている。この子を、俺は知っているのだ——。
「あの子……」
思わず鉄格子の方へ足を踏み出した、その時だった。
「おい。誰か来なかったか」
野太い声。一階から一人の男が上がって来て、鉄格子の扉を開けた。
上着を脱いでシャツの袖をまくり上げた、頬に深い傷のある男。30代半ばくらいだろうか。値踏みするような目で、あたりを舐め回している。その体には、紫色の靄が、べっとりとまとわりついていた。
その顔を見た瞬間、頭の奥が焼けるように痛くなった。
「——っ、あ、あぁっ……!」
「おい、どうした!」
源蔵さんの声が遠く聞こえる。俺は頭を抱えて、その場に膝をついて頽れた。白い霧の奥から、堰を切ったように何かが溢れ出してくる。
——暗い裏路地。停まっている黒いワゴン車。どぶ川の淀んだ匂い。
『いやっ、やめて! 誰か助けて!』
細い腕が、男たちに引きずられていく。その悲鳴の主を俺は知っている。
『ひかり!』
俺が、あの子の名前を叫んでいた。そしてヤクザたちへ飛びかかっていく。すぐに揉み合いになった。俺は力ずくで相手を車の座席に押し倒していく。
「早く逃げなさい!」
俺は叫んだ。
だが俺は、彼女が逃げられるほどの時間を稼ぐことは出来なかった。
頬傷の男は、どこからか短刀を手に取ると、俺を睨みながら切っ先をこちらへ向けた。
「あっ!」
俺はその尖った刃物の先を凝視した。
そしてそれは、俺が想像したとおり、胸へ突き刺さった。
「ああああ!」
胸が熱くなって息が出来なくなる。目の前で笑う頬傷の男。俺の視界が真っ赤に染まって、記憶はまた霧の中へ呑まれていった。
「……思い出した」
俺は、喘ぎながら顔を上げた。こうやって殺された経緯を追体験すると、まだ心臓が疼く気がする。
「あの男です。俺を刺したのは、あいつだ」
源蔵さんの目が、すっと細くなった。そして、刀の柄に手をかける。
「ほう。そいつぁ、好都合じゃねえか」
源蔵さんは口元をニヤリと歪めると、刀の鯉口を切った。硬い音がして、白い刀身がギラリと輝く。だが、源蔵さんより早く、俺の足はもう男の方へ向かっていた。その様子を源蔵は意外そうな顔をしながら見ていた。
頬傷の男は、鉄格子の前でしゃがみ込み、あの子の——ひかりの顔を、覗き込んでいだ。
「お前を庇った間抜けな男な。あの男……死んだぞ」
ひかりの肩が、びくりと跳ねた。
「お前の知り合いじゃねえのか」
ひかりは、首を横に振った。
男はポケットから、薄汚れた財布を取り出した。それを見て、俺は声を上げそうになる。
それは俺の財布だった。
源蔵さんが、唇の前に指を立てた。俺は唇を噛んで、声を呑む。
男は財布から、一枚のカードを抜いた。運転免許証だ。それを、ひかりの鼻先へ突きつける。
「桐島修治。聞き覚え、あるよなあ?」
その名を聞いた瞬間、ひかりの顔から、すうっと血の気が引いた。隠しきれなかったその一瞬を、男は見逃さなかった。
「やっぱり知ってんじゃねえか」
「……知りません」
「嘘が下手だな」
男の手が、ひかりの顎を、無造作に掴み上げた。
「どうせ今夜が、日本で過ごす最後の夜だ。船に積まれる前に、たっぷり可愛がってやるよ」
シャツの中へ、男の手が滑り込む。
「いやっ——!」
ひかりが、渾身の力でもがいた。乾いた音。男の平手が、その頬を打つ。
「暴れんな。助けなんざ、来やしねえ」
俺の中で、何かが、ぷつりと切れた。
「やめろォ!!」
声を限界まで張り上げたが、頬傷の男には届かない。当たり前だ。死者の声なんて、生きた人間には、風ほどにも届きはしない。俺はただ突っ立って、この子が襲われるのを見ていることしかできないのか。
「俺はこの子がさらわれた時と同じなのか! 俺はまた、この子を守れないのか!」
俺は天を見上げながら叫んだ。この、耐えがたい光景を目の当たりにして、俺は腹の底から、焼けるような熱がせり上がってきた。
その、瞬間、俺は前へ飛び出して、頬傷の男に腕を伸ばしていた。
「ぬおおおお!」
そして気づいたときには、俺の腕は男の背中へ深々と突き入っていたのだ。
ぬるりと、手応えのない感触。だがその指先が、確かに何かを掴んだ。脈打つ熱い塊。この男の——心臓だ。
俺は、それを握りしめた。
「ぐ……あ、ああっ……! 胸が、苦し……」
男が白目を剥いて、のけぞる。ひかりを掴んでいた手が、力なく落ちた。
俺は、男の耳元へ口を寄せた。
「よくも——俺を、殺してくれたな」
頬傷の男は目だけで振り返った。
「ひっ……お、お前は、あの時のー!!」
どうやら霊体に触れている間は、俺のことが見えるらしい。俺はせせら笑った。
「ハハハ、さっきまで見えなかったようだが、今は見えるようだな」
「ひいい、助けてくれ!」
俺はフンと鼻を鳴らした。
「あの子が、助けてって言ったとき」
自分でも驚くほど、低く、震えた声だった。
「お前は、助けたのかよ。……ええ?」
手の中で、心臓が、狂ったように脈打っている。あの夜、俺の胸を貫いた刃の感触が、ぐらりと甦る。同じだ。この男が俺にしたことと、同じことを、今、俺はしようとしている。
頭に熱い血が逆流して、痺れたようにボーッとなった。心臓を握る指に力がこもった。
「修治、やめろ!」
源蔵さんの鋭い声が飛んだ。




