第三章 第零区画
爆発から十分後。
俺は旧居住区の路地裏を歩いていた。
雨はまだ降っている。
コートの袖が血で濡れていた。
老人のものか、自分のものか分からない。
後方ではサイレンが鳴り響いている。
だが妙だった。
警察車両の音ではない。
もっと低い。
重い。
軍用輸送車の駆動音だ。
国家レベルの封鎖が始まっている。
たかが老人一人の死亡にしては異常すぎた。
いや。
違う。
狙われているのは老人ではない。
俺だ。
そう考えた瞬間、背筋が冷えた。
地下鉄跡地へ降りる。
今は廃線になった旧環状線。
監視カメラが届かない数少ない場所だ。
薄暗い通路を進み、鉄骨の陰に腰を下ろす。
そこで初めて、老人から渡されたメモリーチップを見つめた。
指先ほどの小さな媒体。
今の時代、こんな旧式を使う理由は一つしかない。
ネットワークに接続させないためだ。
つまり。
中身を見られるだけで危険なのだ。
俺は携帯端末を起動した。
警告表示。
【未認証媒体】
【閲覧は法令違反となる可能性があります】
無視して接続する。
数秒後、フォルダが開いた。
中にはたった一つのデータしかなかった。
タイトル。
D-0 Archive
再生を押す。
ノイズ。
白黒映像。
古い監視カメラ記録だった。
日時表示は五十年前。
映像には巨大な地下施設が映っている。
無機質な廊下。
白い壁。
番号付きの扉。
そして。
子供たち。
十数人。
全員が白い服を着せられている。
年齢は五歳から十歳ほど。
誰も笑っていない。
表情が空っぽだ。
映像の中で研究員らしき男が話している。
音声は乱れていた。
だが一部だけ聞き取れた。
「記憶洗浄プロトコル開始」
「対象群D-0」
「情動残留率を再測定」
子供の一人が泣き出した。
女の子だった。
研究員が近づく。
無表情で注射器を首筋に刺した。
少女は数秒で静かになる。
まるで感情そのものを切断されたみたいに。
その瞬間だった。
映像の端に、一人の少年が映った。
黒髪。
痩せた顔。
怯えた目。
俺は息を止めた。
その少年を知っていた。
鏡で何度も見た顔だ。
俺だった。
「……は?」
声が出なかった。
映像の中の少年は壁際に座っている。
腕に番号が刻まれていた。
D-0-17。
研究員が近づく。
少年――俺の顎を掴み、顔を上げさせる。
そのとき初めて、少年の目に涙が溜まっているのが見えた。
研究員が言う。
「この個体は抵抗が強い」
「元記憶の残留率が異常値です」
別の声。
女の声だった。
「処分しますか?」
数秒の沈黙。
やがて男が答える。
「いや」
「適応可能だ」
「この子は使える」
映像が途切れる。
俺は動けなかった。
呼吸が浅い。
頭痛がする。
胃が捻じれるように痛む。
ありえない。
俺の幼少期は普通だった。
記録も。
学校も。
家族も。
全部あった。
なのに。
今見た映像は何だ。
あれが偽物だという証拠が見つからない。
しかも。
俺はあの施設を知っている。
行ったことがある。
見たことがある。
臭いまで思い出せる。
消毒液。
金属。
冷たい床。
忘れていたはずなのに。
突然、端末が赤く点滅した。
【外部アクセス検知】
心臓が跳ねる。
追跡だ。
誰かがこのデータ閲覧を監視している。
俺は即座に通信を遮断した。
だが遅かった。
地下空間の奥から足音が響く。
複数。
重い軍靴の音。
人間だ。
ドローンじゃない。
誰だ。
警察ではない。
足音に無駄がなさすぎる。
訓練されている。
俺は端末を閉じ、暗闇へ身を潜めた。
通路の向こうに光が現れる。
白色ライト。
低い声。
「反応はこの先だ」
男たちが近づいてくる。
黒い装備。
無表情。
胸元には銀色の紋章。
円の中に閉じた目。
見たことのないマークだった。
だが本能が警告していた。
関わるな。
逃げろ。
先頭の男が立ち止まる。
空気を嗅ぐように顔を動かした。
そして。
「いるな」
俺は走った。
同時に銃声。
火花が散る。
鉄骨が抉れる。
実弾。
今どき珍しい。
つまり殺害前提だ。
通路を全力で駆ける。
後方から怒号。
「確保しろ!」
「生体優先!」
“生体”。
その言葉に違和感を覚えた。
まるで人間ではなく実験動物を扱う言い方だった。
曲がり角を飛び込む。
行き止まり。
くそ。
振り返る。
男たちが迫る。
終わった。
そう思った瞬間だった。
背後の壁が突然開いた。
細い腕が伸びる。
俺の襟首を掴んだ。
そのまま暗闇へ引きずり込まれる。
壁が閉じる。
完全な闇。
息を殺す。
外では男たちが通り過ぎていく音がした。
数十秒。
永遠みたいな沈黙。
やがて小さな光が灯る。
懐中灯だった。
そして。
俺はその人物を見て固まった。
女だった。
二十代後半。
痩せている。
長い黒髪。
青白い顔。
だが。
俺は彼女を知っていた。
いや。
正確には。
“記憶の中で”見た。
あの虐殺の広場で。
幼い少女の手を引いていた女。
通信で「私を見つけて」と言った声の主。
女は静かに俺を見つめる。
そして言った。
「やっと会えた」
その瞳には、深い疲労と恐怖が宿っていた。
「蓮」
彼女は震える声で続ける。
「あなたは、まだ全部を忘れてる」




