第1話:新しい専属侍女
「お目覚めでしたら洗顔をお願いします。メアリーは衣装室から今日のドレスを持ってきますから」
私が見知らぬ侍女に呆然としている間にも、メアリーはお湯の入った桶をサイドテーブルにドンと置いた。
どこかイライラしたようなメアリーは、私や見慣れぬ侍女を見ないまま衣装室へと向かう。
部屋に残される私と見慣れない侍女。
「……何なの?」
何の説明もないまま部屋を出ていくメアリーを呆然と見送る。
というか、見知らぬ人と二人きりにしないでほしいのだけど?
「気になさらなくて大丈夫ですよ。私が専属侍女になったことを不満に思っているだけですから。専属侍女が増えたって、メアリー様が筆頭侍女なのは変わらないというのに、困った方ですね」
何も分からない私に、見慣れない侍女がそう教えてくれた。
クリーム色の髪を一つに纏め、藤色の瞳を細めて柔らかく微笑んでくれる見慣れない侍女。
でも、その姿には見覚えがあった。昨日の夕食の時に食堂で私を見ていた侍女だった。
「って……専属侍女? 貴女が?」
「はい。私、ルーティと申します。本日付でアリシア様の専属侍女に配属になりましたので、宜しくお願いします」
彼女の言葉を思い出して確認すれば、ルーティと名乗った新しい侍女は、私の専属になったと改めて答えてくれる。
一人きりの時間が無くなったことが少なくなるかもしれないという事実は嬉しい。
嬉しいのだけれど、どうしても引っかかる。
「……母は私の専属を増やすことを嫌がっていたのではなかったの?」
そうやってずっと私はメアリーから聞かされていた。
新しい侍女を入れて、また誘拐事件が起きたら面倒だという理由で、私の専属侍女は増やせないと聞いていたのに。
けれどルーティはきょとんとしたまま首を傾げる。
「そうなのですか? 新しい専属候補を入れてもメアリー様と合わないからという理由で増やせなかったと聞いていますけれど」
「え……?」
メアリーと新しい専属候補が合わない?
なにそれ、そんなの聞いてないのだけれど。
混乱する私を見て、ルーティが申し訳なさそうに苦笑した。
「何か混乱させてしまったみたいですね。それはそうと、メアリー様が戻られる前に洗顔を済まされてはどうですか? 今日のメアリー様、相当機嫌が悪いみたいですから」
「あ……そうね」
ルーティの言葉を受けて、私はメアリーが置いていった桶に向き合った。手を入れれば少しぬるくなったお湯の温度を感じた。
(でも、機嫌が悪いのはそれだけが理由? 昨日のお茶会以降、メアリーはずっとどこかピリピリしてたのに)
お茶会の時に、王の影とお姫様が想い合っているのでは? と聞いて以来、メアリーの態度はずっとあんな感じだった。
何がそんなに不愉快だったのか分からないけれど、メアリーが戻ってきた時に洗顔が終わっていなければ、また機嫌が悪くなるのは目に見えていた。
思考を切り替えるように、私は手早く洗顔を済ませる。
タオルで顔を拭いているとメアリーがいつものドレスを手に戻ってきた。
「洗顔はお済みですか?」
「ええ」
「それなら次はお着替えをお願いしますね」
言葉はいつも通りだけど、吐き捨てるような言い方がメアリーの機嫌の悪さを物語っていた。
メアリーの言葉に従って、ナイトドレスからいつものロイヤルブルーのドレスに袖を通す。
「さ、次は髪ですね。こちらへどうぞ」
「どうぞ、アリシア様」
着替えを済ませて鏡台の前に向かおうとした時、ルーティの声に足が止まる。
アリシア様。ルーティは私をそう呼んだの?
「アリシア様?」
動かなくなった私を見て不思議そうな顔をするルーティ。その呼ばれ方に、また胸が熱くなるのを感じる。
うまく言葉が出てこない。ただ胸が一杯になって、その場に立ち尽くす。
「お嬢様、早くして下さい」
苛立ったメアリーに急かされても、私の視線はルーティに固定されたまま。
「どうかなさいましたか? アリシア様」
「……なんでもないわ。ただ……名前で呼ばれたの、初めてだったから驚いて……」
口にしてから少し恥ずかしくなった。
けれども使用人の誰も私を見ないこの屋敷では、私の名前を呼ぶ人なんていない。
父は手招きはしてくれるけれどそれだけだし、母に至っては私を見ようともしない。メアリーはいつも私を「お嬢様」と呼ぶ。
ただ名前を呼ばれただけ。なのに、たったそれだけのことがとても嬉しい。
そんな私の返事に、ルーティがくすりと笑う。
「お名前くらい、いくらでも呼んで差し上げますよ、アリシア様。さ、こちらへどうぞ」
「……ありがとう」
そう言って私はルーティに招かれるまま鏡台の前に座った。
即座にメアリーが私の背後に立って櫛を滑らせる。いつものように絡まりを解きながら髪型を決めていく。
迷いなく動くメアリーの指先。いつもと同じ髪型にするだけの動きに、またいつもと変わらない今日が始まったのだと実感する。
「ねえ、メアリー」
「お嬢様、作業中は声を掛けないで下さい」
思いついたことを告げようとして口を開けば、いつものように黙らされる。
そんな私たちのやり取りを見ていたルーティが、笑いながら私に視線を合わせてくれる。
「アリシア様、メアリー様は口が利けないようなので私が代わりにお話を聞きますよ。どうされたのですか?」
私の話を聞いてくれるルーティに気持ちが浮上する。
今まで私が何かを言うことなんて許されなかった。話を聞いてくれる人がいるというのがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。
「あのね、メアリーは右腕を怪我していて、まともに動かせないでしょう? だから髪をまとめるのはルーティに頼んでもいいのではと思って……」
「私がやるのでは不服ですか?」
私が上機嫌でルーティに思ったことを口にした瞬間、苛ついたようなメアリーの声が重なった。
「新しい侍女が入ったら、メアリーはもう用済みだと、そう言いたいのですね」
「違うわ、そんなこと思ってない!」
吐き捨てるようなメアリーの言葉。それは違うと言っても、今日のメアリーに私の言葉は届かない。
どうして今日のメアリーはこんなに苛ついているの? 私はただ心配しているだけなのに。
そんなメアリーを見て、ルーティは肩を竦める。
「アリシア様の提案を無視して、どうしても自分がやりたいと意固地になるなら、そうすればいいじゃないですか」
「なんですって?」
「今までもそうやって、新しい専属候補を威圧して辞めさせていったのでしょう? あいにく、私にその手は通用しませんので」
ルーティの言葉に反応して、ルーティを睨み付けるメアリー。そんなメアリーを冷笑するルーティ。
二人の間に張り詰めた空気が広がって、私は何も言えなくなった。
ああ、私が何を言ってもメアリーを怒らせるだけなのね。だったらもう、何も言わないほうがいいのかも……。
「……ごめんなさい、メアリー。もう何も言わないわ」
これ以上話がややこしくなる前に謝った私を見て、ルーティが呆れたように息を吐く。
「貴女の不機嫌に当てられてアリシア様に謝罪させるとか、どちらが主が分かったものではありませんね。主に気持ちよく過ごしてもらうための使用人の立場だと言うのに」
挑発するようなルーティの言葉に、ぎろりとルーティを睨みつけるメアリー。
私が黙っても、二人の間にある剣呑な空気は消えない。むしろ私が謝罪したことで、より酷くなった気がする。
(……この二人、致命的に相性が悪いのかも……)
私が黙ったことで、ルーティを無視してメアリーの手が動いていく。
いつも通りの慣れた手つきで、いつも通りの髪型が出来上がっていった。仕上げにとメアリーがロイヤルブルーの石が付いた髪留めを手にした時に、ふと浮かんだのは夢の中で見た彼の髪色。
(……夢で見た時雨の髪色は濃紺だったのよね。瞳は紫色だった)
夢の中で見た彼の色合いを思い浮かべる。今纏っているロイヤルブルーとは違う、深くて静かな色。
あの色を纏えるなら、この落ち込んだ気持ちも少しは明るくなれる気がするのに。
「ねえ、メアリー」
「お嬢様、作業中は声を掛けないで下さい」
そんな提案をしようとして、また黙らされる。
あ……そうだったわね。私は何かを言える立場にないのだから、そんなことを言っても困らせるだけよね。
「アリシア様、私が聞きますよ。どうかしましたか?」
ルーティはそう言ってくれるけれど、また私が何かを言って喧嘩になられても困る。
私は苦笑を浮かべて「なんでもないわ」と答えるのが精一杯だった。
「さあ、出来ましたよ」
ロイヤルブルーの髪留めが留まる音とともにメアリーがそう言う。
いつもと同じドレス、髪型、装飾品。
昨日と何一つ変わりのない「私」が、今日も出来上がった。




