プロローグ
見知らぬ場所に、私は立っていた。
私の眼前には、視界いっぱいに広がる大きな木が見える。天にまで届きそうなくらい空に向けて大きく伸ばされた枝に、薄桃色の花びらが無数に咲き誇っていた。
遠く離れていても伝わってくる、圧倒的な存在感。見たことのない風景。それなのに、どこか懐かしいとさえ感じた。
さすがにこれは夢だと分かる。だって現実に、こんな幻想的な景色が存在するわけがないのだから。
(いつもと違う夢なのは嬉しいけれど、これは一体何の夢なのかしら?)
眠る前、私は誘拐される夢を見るくらいなら、時雨に会いたいと願った。
でも、ここにあるのは幻想的な大きな木が一つだけ。誘拐犯どころか、誰もいない静かなだけの空間。
(……まあ、誘拐される夢ではないから、いいのかしら)
景色はいいし、私を誘拐しようとする怖い人もいない。
屋敷の外には出られないんだもの。夢の中でくらい、外の景色を満喫してもいいわよね。
『めーちゃん。ここにいたの?』
そう思っていたら、背後から誰かに声を掛けられた。
誰もいないと思っていた分、体はビクリと反応する。その声に胸が締め付けられるような感覚もあった。
でもそれは不快なものではない。むしろ、ずっと聞きたいと願っていた声で。
呼ばれた声に反応して振り返れば、そこには見知らぬ男性が立っていた。
『探したよ、めーちゃん』
『時雨……』
目が合った瞬間、息を呑んだ。
ふわりと笑う彼を見て、ぽつりと私の喉からも同じ音が漏れる。その名を呟けば、彼は紫の目を細めて柔らかく笑ってくれる。
濃紺色の髪に紫色の瞳。我が家の使用人には……ううん、色素の薄い王国民にはまず見ない色合い。
懐かしいとすら感じる色合いに、どうしてか泣きたくなった。
『世界樹を見てたの?』
そう言いながら、私の方に向けて静かに歩いてくる彼。
どこかに私を連れて行こうとした誘拐犯たちと同じように、私を知らない名前で呼んで、知らない言葉で話しかけてくる。
それなのに、彼にそう呼ばれるのは少しも嫌ではなかった。
『どうしたの? めーちゃん』
『ううん、なんでもない』
私の隣に立って、優しく私を見る彼。見知らぬ人がいるという事実より、彼が側にいてくれることで落ち着く気持ちのほうが強い。
ああ、本当に彼が「時雨」なのだと……夢で見た幼い私が会いたがっていた「彼」なのだと実感した。
(本当に会えた……)
夢で会いたいと願ったけれど、本当に会えるなんて思ってもみなかった。
そんな私を見てくすりと笑って、彼の視線はまた眼前の大きな木に向けられる。
『桜華国の象徴とも言える世界樹。相変わらず幻想的だよね』
『桜華国……』
彼の口から出てきた単語に、一瞬体がこわばる。
桜華国。メアリーが読ませてくる本のタイトルと同じ。それなら「王の影」と呼ばれたのは、本当に貴方なの?
そう聞いてみたかったけれど、どうしてか言葉が出てこない。やっと会えたという気持ちで胸がいっぱいになって、うまく言葉が出てこない。
『時雨……』
『うん?』
彼の名前を呼んでみれば、優しげな笑みを浮かべたまま私を見る。
私の口から出てくる言葉は、いつもの王国語ではない。知らないはずの言葉がすらすらと出てくるけれど、その意味を考えるより前に、彼に伝えたい言葉が喉から飛び出してくる。
『私、ずっと貴方に会いたかったの』
やっと言えた。そんな気持ちでいっぱいになる。
私の言葉に一瞬きょとんとして、それからくすりと笑う彼。
『大げさだな。ずっと一緒にいるのに』
そう言って笑う彼。その言葉に胸がつきんと痛くなった。
そうね、ここではずっと一緒にいたかもしれない。けれど、今の私の側に貴方はいない。
(ここは夢だから貴方に会えた。でも、目を覚ませばまた貴方はいなくなるの)
声も温もりも、その姿を見ることさえ出来なくなるの。
それを告げたくて口を開く。でも、どうしてか言葉に詰まった。
言いたくない、と心が拒絶した。彼のいない現実など、受け入れたくないと。
そんな私に気が付いてか、彼は笑みを引っ込める。そしてどこか寂しそうな眼差しで私を見た。
『大丈夫だよ、めーちゃん』
『なに、が……』
うまく言葉が紡げない。それでもどうにかそう呟くと、彼は静かに言葉を続けた。
『どこに行ったとしても、僕は絶対、めーちゃんのもとに戻るから』
絶対。そう言い切る彼。
どうしてそう言い切れるの? と問う前に、彼がふっと笑った。
『だって僕は、逃げられないから』
その言葉に思考が止まる。その言葉がやけに耳に刺さった。
逃げられない? 何から?
次々に浮かぶ疑問は言葉にならず、彼も答えてはくれない。沈黙が二人を包む。そしてその沈黙を破るように彼はそっと私の手を取った。
『それじゃあ、めーちゃんも行こうか』
『行くってどこに……。私、国王のもとには行かないからね!』
彼の言葉に、あの誘拐犯の声が頭をよぎった。国王がお待ちかねですよ、と恍惚な笑みを浮かべながら囁かれた言葉。
そんな場所に行きたくないと咄嗟にそう叫べば、彼はまた驚いたように目を丸くする。
けれどもそれも一瞬。そのままふわりと笑ってくれる。
『大丈夫だよ。国王のもとには連れて行かせない。行くのは、僕らの仲間のもとにだよ』
私を安心させるようにそう告げる彼。
『仲間……?』
『うん。僕らを守ろうとしてくれる、大事な子たちだよ』
そう言いながら微笑む彼。その表情からは心底その相手を信頼しているのが伝わってくる。
けれども私にはその相手に心当たりなんてない。私を守ってくれているのは専属侍女のメアリーだけ。それ以外には誰もいないと思っていたのに。
私が戸惑っているのを感じたのか、彼はまた優しく笑ってくれる。
『大丈夫。僕らを狙う人もいれば、守ろうとしてくれる人もちゃんといるから』
『本当に……?』
『うん。きっとあの子たち……特に、【沙霧】と【揚羽】はめーちゃんを守ってくれる。あの二人は、そのために存在してるんだから。だから、怯えなくていいんだよ』
その言葉に根拠なんてない。あの子たち、という相手に心当たりもない。
それでもどうしてか、彼の言葉に嘘はないと思った。握られた手のひらから伝わってくる温もりが、大丈夫だと教えてくれた気がした。
『時雨、私ーー』
私が言葉を紡ごうとした時に、くらりと意識が揺れる。目覚めの時間が近づいているのだと、そう思った。
まだ言いたいことは沢山あった。もっと側にいたい、声を聞いていたい。
けれどそんな願いは叶うことなく、そのまま私の意識は暗転した。
目を覚ませば、視界に入るのは見慣れた天井。窓から差し込む光が、部屋の中を明るく照らしていた。
(ああ、やっぱり夢だったのね……)
体を起こして周囲を見渡してみれば、そこは天蓋のカーテンに仕切られたいつもの部屋。
満開の花も優しい紫色の眼差しも、ここにはない。それが悲しくて、瞳から涙が溢れた。
「時雨……」
ぽつりとその名を呼んでみる。けれど、その声に反応してくれる声はもうない。夢の中とはいえ、先程まではあんなに近くにいたのに。
笑いかけてくれた。名前を呼んで、返事をしてくれた。全部夢だと分かっているのに、満たされた気持ちになった。
それと同時にそれがただの夢でしかないという現実に心が冷えていく。
「会いたい、な」
夢だけではなく現実でも会いたい。
ただの夢をそんな風に思うのはどうかしてると自分でも思う。あれはただの夢で、現実に彼が存在するわけじゃないのに。
そうやって思考を切り替えようとしても、うまくいかない。
ぼんやりとベッドで夢について考えていると、荒々しく部屋の扉が開かれる音が聞こえた。
(ああ、メアリーが起こしに来たのね。……でも、何か様子が変……?)
いつもならもっと静かに部屋に入ってくるのに、今日の入室は随分と荒々しい。
「おはようございます、お嬢様」
何かあったのだろうかと考えていると、部屋に入ってきた時の勢いそのままに、乱暴に天蓋のカーテンを開けるメアリー。
「おはよう、メアリー……え?」
不機嫌そうなメアリーの背後に、見知らぬ侍女が一緒に立っていた。
いつもと同じはずの日常は、どうやらいつもとは違う形で始まったらしい。




