第10話:過去の喪失と未来の約束
「……なので、私がアリシア様の侍女として働けるのはそこまでなのですよね」
「え……?」
そんな考えに沈んでいると、不意にネルのそんな言葉が耳に届いた。
(ネルが……いなくなる?)
あまりの驚きから、自然と足が止まる。
その言葉が耳に届いた瞬間、頭が真っ白になった。
侍女として働けるのはそこまで。つまりネルは、子供が出来たら私の侍女を辞めてしまうのだという。
それまで楽しく話を聞いていた私の胸が、すぅっと冷えていくのが分かった。
「アリシア様?」
足が止まった私を見て、ネルが不思議そうに私を見る。ネルの声に反応して、ルキアも足を止めた。
心配そうに私を見るネルと目が合った瞬間、不意に泣きたい気持ちになった。
(ルーティもネルも……二人とも、ずっといてくれるわけではないのね)
ルーティは「他家から借りてきた侍女」という話が最初からあった。だから、いつかいなくなるのだろうという覚悟が多少なりともあった。
それなのに、ネルもそのうちいなくなるという。
隣で話してくれているネル。
私の手を取って励ましてくれて、知らないことを教えてくれていたネルも、いつかいなくなる。
そう考えるだけで、胸の奥が痛む。
その時に起こる妊娠、出産という話はおめでたいはずなのに、私は素直に喜べそうにない。
胸が痛くて、息がしにくい。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。ネルもルーティもいなくなる。その事実を想像しただけで、胸が締め付けられるほどに苦しかった。
(どうして? どうしてこんなに苦しいの?)
こんな気持ちになるのが不思議だった。ルーティと出会ったのは昨日で、ネルに会ったのは今朝が初めてなのに。
なのに「いつか別れる」と知った瞬間、どうしてこんなにも泣きたい気持ちに襲われるんだろう。
「っ……!」
そう思った時にまた、脳裏に不思議な光景が浮かんできた。
木で出来た小屋の中、赤に沈む濃紺。閉ざされた瞼の奥にある紫が、私を見ることはもうないのだと直感で理解した。
冷たくなっていくその手を取って、泣き叫ぶ誰かの声。
――あの時、貴方と離れなければよかった。そしたら今も、ずっと一緒にいられたはずなのに。
――離れたから、私は貴方を失うの? こんなことになるのなら、ずっと傍にいればよかった!
(何、これ……)
深い絶望と後悔を宿した声が耳に残る。けれど、不思議な光景はそこで終わった。
私の視界はいつもの見慣れた廊下を映し出し、隣で心配そうなネルが私を見ているのが分かった。
「アリシア様、大丈夫ですか?」
「ええ……」
ネルの声に返事をすれば、ネルはホッとした表情を浮かべた。
(今のは、あの時と同じ……?)
昨日ルーティと桜華国物語の話をしていた時と同じ。あの時も不思議な光景が浮かんだ。
豪華な城、夢で会った時雨の寂しそうな顔。
そしてそんな彼を置いていけないと叫んだ誰かの声。
場所も状況もあの時と違う。それでも私には、あれが同じものだと分かった。
(私は……時雨の手を離したの?)
そして手を離した結果、私は時雨を失った。その喪失が、今私が感じているこの恐怖心の正体なのだと感じた。
でも私はいつ彼に出会って、彼を失ったのかが分からない。
先程の光景が、一体何を示しているのかも。
(また、分からないことが増えたわね)
じっと手を見ながら息を吐く。
あんな景色を見たからか、私の手は震えていた。
「アリシア様」
そんな震える私の手を、ネルがそっと包み込む。
冷たくなっていく時雨の手とは違う、柔らかくて温かい手。
「大丈夫ですよ、アリシア様。私もルキア様のように、生まれた子供が自立したらまた侍女として働きたいと思っていますから」
ネルの声が静かに胸に広がっていく。
俯いていた顔を上げれば、優しく微笑んでいるネルと目が合った。
「生まれた子供が自立したら、また私は侍女として働きます。だから一度別れが来たとしても、それは決して永遠の別れではないのですよ」
私が何に怯えているかを理解しているように、ネルは言葉を重ねてくれる。
子供が自立したら、また働く。また会える。
「本当に、それで終わりではないの?」
「勿論です。なので、その時にまたアリシア様が侍女をお求めでしたら、ぜひ声を掛けて下さいね」
そう言ってネルは笑いかけてくれる。ネルの言葉を聞いて、呼吸が落ち着いていく。
「アリシア様、大丈夫ですか?」
「ルキア……」
ルキアが心配そうに私を見てくれる。声につられて、私はルキアを見た。
貴族学院で母とルキアは友人だと聞いている。その時の縁があって、子育てが終わってから私の専属侍女をしてくれていると言っていた。
それと同じように、ネルも子育てが終わったらまた侍女として働くという。その時に私が望むなら、また侍女になってくれると言ってくれた。
離れることと失うことは同じではない。
あの風景では、あれが時雨との最期になった。それでも皆が皆、離れたら終わりというわけではないのだと、ルキアとネルが教えてくれる。
「それともアリシア様は、もう私を雇いたくはないですか?」
「そんなことはないわ! ネルが嫌だなんて、そんなことない。いなくなってしまうことに、恐怖を感じたくらいなのに……」
返事のない私にネルは茶化すようにそう聞いてくる。
その言葉を受けて咄嗟に言葉を返せば、ネルは驚いたように目を丸くした。私がここまで過剰反応するとは思っていなかったのだろう。
でも、それからネルは嬉しそうに笑ってくれた。
「それなら、その時は宜しくお願いしますね。未来の約束、ちゃんとしましたからね」
そう言ってネルは私の手を握る。
未来の約束。その言葉に、手の温もりに、胸が温かくなる。
「その時は母が私のためにルキアを雇ってくれたように、私の子供の侍女としてネルを雇ってもいいわね」
「ふふ、その時を楽しみにしていますね」
私がネルと話せるようになって安堵したのか、そんな私たちの話を聞きながら、ルキアはまた歩き出す。
そんなルキアを見て、ふと思う。母が私にしてくれたのと同じように、私が繋いだ縁を、私の子供に託してもいいのかもしれないと。
もちろん今の私にはそんな相手もいないし、その時にこの環境がどうなっているのかも分からない。
けれど、そんなふうに繋がっていられたらいいなと思った。
「約束ね、ネル。子供が出来て一度離れてしまったとしても、子供が自立したら、また私に仕えてね」
「はい。承りました」
また会えるようにと願いを込めて、そんな未来の約束を一つ、ネルと交わす。
それをネルは笑顔で受け取ってくれる。それが嬉しくて、自然と笑みが浮かんだ。
今日初めて会った人と、こんな話をするようになるなんて想像もしたことがなかった。
屋敷から出たことのない私が、そんな未来の話をできるようになるなんて、思ってもみなかった。
不思議な気持ちで、でも悪くない気持ちでネルと笑い合う。
そんな話をしている内に、食堂に着いた。




