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【新章開始】桜華国物語~失った記憶と、襲い来る前世の因縁~  作者: 月峰遥希
第1部・第2章ー変わりゆく日常ー

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第7話:貴族のマナー


 今まで言われ続けていたことは、それは使用人のマナーだった。そう言われても、今まで言われ続けてきたことと真逆のことすぎて、頭が上手く受け止められない。


 言われたことを私が理解出来ていないことがルキアにも分かったのだろう。

 そんな私を見て、それでもルキアは呆れることなく、根気よく、丁寧に教えてくれた。


「使用人にとって、この時間は仕事の時間です。私語は慎むように、仕える主を不快にさせないように廊下は静かに歩きなさい。そう言われるのは当然です」


 一語一語を区切りながら、ルキアが使用人側のマナーを教えてくれる。

 使用人たちは屋敷に仕えて、与えられた仕事をこなすことで給金を得ている。それで生活しているのだから、雇用主に従うこと、雇用主を不快にさせないために私語を慎み、仕えるのは当然だとルキアは言う。

 ルキアの言葉にネルも静かに頷いた。


「けれどアリシア様は違います。アリシア様にとって、この時間はただの生活の時間。その場で思うままに侍女(じじょ)とお喋りをしたとして、何の問題があるというのですか?」


 ルキアの言葉に頭が余計に混乱していく。

 今までずっと、話し掛けても迷惑そうにされてきた。高圧的な侍女に威圧されることもあった。

 メアリーに質問することだって、ただの一度も許されなかったのに。

 それなのに、ルキアは話してもいいという。幼い頃から今日まで、ずっとメアリーに言われ続けてきた言葉と正反対の言葉を言われても、どう反応していいのか分からない。


「使用人から話し掛けて主を煩わせることはあってはなりません。ですが、主が話し相手を望むなら、それに応えるのは使用人の仕事の一環です。ネルやルーティ、私に聞きたいことがあるのなら、いくらでも話し掛けていただいて構いませんよ」


 ルキアの言葉を、私は呆然としながら聞くしかできない。

 余計なことを話してはいけない。

 廊下は黙ったまま、静かに歩かなければならない。

 それが今までの私に与えられていた「マナー」だったのに。


 廊下で話しても良い。

 黙らなければいけないとしても、それは使用人のマナー。


 ルキアはそう言ってくれる。

 けれど私の頭の中では、メアリーに長いこと言われ続けてきた「廊下で喋るな」という言葉が渦巻いている。

 これだけ言われてもまだ、十年以上メアリーに言われ続けてきた言葉は、そう簡単には消えてくれない。


「……本当に、黙ったまま静かに歩かなければならないのではなかったの?」


 私がポツリと漏らすと、背中から鋭い気配を感じた。メアリーの「黙れ」という合図。

 でもルキアは、そんな私の背後を……メアリーを一瞥(いちべつ)する。

 その瞬間、ネルが動いてくれたのだろうか。不思議とメアリーの鋭い気配を感じにくくなった。

 そしてルキアは一つ息を吐いてから膝を少し曲げて、私に視線を合わせてくれた。

 私を見下ろすのではなく、真正面から視線を合わせて優しく微笑むルキア。


「確かに幼い子供のように大声ではしゃいだり、廊下を走り回ったりするのはマナー違反です。そこまでの大騒ぎは、貴族令嬢として絶対にしてはいけませんよ」


 私を真っ直ぐに見るルキアの瞳に、何も知らない私を侮蔑(ぶべつ)するような色は見えない。ただ、慈愛の色だけが浮かんでいた。

 幼い子供に言い聞かせるように、ルキアは穏やかに告げる。その声はとても柔らかく、何が駄目なのかを明確に線引してくれる声だった。


「ですが移動中に使用人と話すことに何の問題があるのです? 私もシエラも、朝起きて食堂に行くまでの間に、専属侍女から今日の予定を聞いたり、確認事項を受けたりしています。そうでなければ、急な予定変更に対応も出来ませんからね」


 母もルキアも同じ。そう聞いて、思わず息が漏れた。

 もしかしたら朝食の時間にさえ変更があるかもしれない。だから食堂に向かうまでに、一日の予定を把握するのは屋敷の女主人として当然のことだとルキアは言う。


「それ以外にも、来客があった時や他家に招かれた時など、誰かと歩きながら話すという機会は社交界には沢山あります。そのような場ではむしろ、相手を会話でもてなさずに沈黙したまま歩くほうがマナー違反ですよ」


 それが普通だと言われ、胸の奥が軋んだ。

 もしもそれが貴族の「普通」だというのなら、私の「普通」はどれだけ歪められていたんだろうか。

 外の世界で……ううん、この屋敷の中でもそう。

 母たちが持っている「当たり前」が、どれだけ私には届いていなかったのだろう。


(メアリーがそう言うから、それが正しいことなのだと思ってた。でも、それは間違いだったみたい)


 また一つ、足場が崩れたような感じがした。

 それが怖いと思いながら、それでもその崩れた足場に、即座にルキアが新しい足場を用意してくれる。

 間違っていたことを間違っているのだと言うだけでなく、ルキアは新しく教えてくれる。

 それに息を吐きながら、私は口を開く。


「……聞きたいことがあるなら、聞いてもいいの?」

「勿論ですよ。むしろ何かあるのに黙られて、何も分からないままでいるほうが問題ですからね」


 確かめるように聞いた私に、答えてくれるルキアの声はとても優しかった。

 今まで両親から遠ざけられてきた。メアリーからも具体的な貴族のマナーなど聞いたこともない。


 こうしてマナーを誰かに教えてもらったのは初めてかもしれない。でも、これが本当に正しいのかさえ私には分からない。

 今まで誰も教えてくれなかったから。


 昨日からずっと、私が信じてきたものがどんどん崩れていく。

 これが正しいのですと言われても即座には信じられない。それなのに、与えられる常識は昨日から変わり続けていく。


(本当に、どれが正しいの……?)


 何もかもが信じられなくなっていく。何を信じていいのか分からなくなっていく。

 そんなふうに困惑した私を見て、ルキアが苦笑した。


「メアリーが今まで、どれだけ仕事を放棄していたかがよく分かる状況ですね」

「何も知らなくて、ごめんなさい……」


 メアリーを責める声を聞いて、咄嗟(とっさ)に謝罪の言葉が口から漏れた。


 本当は私のせいではないと分かっている。けれども普段から言われ続けていることの反射で、つい謝ってしまう。

 こんな自分は嫌なのに。せっかく時雨(しぐれ)と話して、自分の見たもので判断していきたいと思っていたのに、私はまだ変われていない。

 それが悲しくて、私は俯いた。


「アリシア様」


 そんな俯いた私の肩を、ルキアがしっかりと掴む。真剣な眼差しが私を射抜いた。


「この場合、悪いのは何も教えてこなかったメアリーと、何の確認もしなかったシエラの方です。アリシア様が悪いことは何一つとしてないのですよ」


 ルキアの言葉に顔を上げる。

 その眼差しはどこまでも私を心配していて、私を導いてくれていた。

 私は悪くない。それだけは間違えるなと、切々と訴えていた。


「それから、アリシア様はこの屋敷のお嬢様です。何があっても、使用人に謝罪の言葉を口にする必要はありません。そこは徹底して下さいね」


 でも、続けられたルキアの言葉に、私は首を傾げる。

 お嬢様だから謝罪してはいけないと言われたことが、不思議でならなかった。


(どうして……? 私は、この家の本当のお嬢様ではなくて……だから使用人にも嫌われている。だから私は皆に謝らなければいけない立場なのに……)


 ぐるぐると思考が駆け巡る。色々なことを言われすぎて、頭が落ち着かない。

 ルキアは母の友人を名乗っているのに、私が養子であることを知らないのだろうか。


 そう思った時、「めーちゃん。先入観は見方を変えるよ」と言った時雨の言葉が脳裏に浮かんできた。


(時雨……)


 優しい笑顔を浮かべながら、私の頭を撫でてくれた時雨。あの優しさを思い浮かべるだけで、混乱していた私の頭は、静かに落ち着いていく。


 それと同時に、私が養子で、だから使用人にも嫌われていると言ったのもメアリーだったことを思い出した。

 そしてそのメアリーの言葉は、昨日から何度も覆されている。


(それならこれも、メアリーがついた嘘の一つ……?)


 思考が落ち着けば、見えてくるものもある。

 それでも「先入観は見方を変える」と言った言葉もあって、それを断定することも出来ない。


(私はどうしたらいいんだろう……)


 昨日からずっと正反対なことを言われすぎて、頭が落ち着かない。こんなに多くのことを言われても、それが常識なんだと受け止めきれていない気がする。

 そんな私を見て、ルキアが苦笑した。


「アリシア様には細かいマナーを覚えることよりも、体験した方が早いでしょう。実践での会話練習のほうが、言葉であれこれ言われるより理解出来るかもしれませんね。ネル、相手をしてあげて」

「かしこまりました」


 呆然と立ち尽くす私を見て、ルキアがネルに声を掛ける。するとルキアの言葉に反応して、ネルが私の隣に立った。


「ここからは私とお話ししながら行きましょうね」


 そう言って微笑んでくれるネル。

 廊下で話してもいい。それが事実だと言わんばかりに、ネルが話し掛けてくれる。


(確かに今の私には、本当に話しても良いという実感のほうが必要なのかもしれない)


 ルキアに廊下で話してもいいと言われた。

 けれど、言葉でどれだけ言われても、メアリーに言われ続けられた言葉が邪魔をして、本当に話してもいいのかどうか、ずっと不安なままだったから。

 こうしてネルが普通に話し掛けてくれることは、メアリーの言った「話してはいけない」というマナーは本当に嘘だったのだと分かる。


「……うん」


 その何気ない優しさに、肩から力が抜けてそっと息を吐いた。

 私が小さく呟いた返事は、ネルにも届いたみたい。私が返した同意に、ネルは嬉しそうに笑ってくれた。

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