第4話:新しい髪型と知らなかった世界
「全く……あれで専属を名乗るなんて……」
不機嫌を撒き散らしながら部屋を出ていくメアリーを見送って、呆然となる私たち。
そんな重苦しい空気から気持ちを切り替えるように、ルキアが深く息を吐いた。
「まあ、今はメアリーのことはいいでしょう。ネル、アリシア様の支度を進めて」
「はい」
ルキアに言われて、ネルが動き出す。
メアリーがいなくなった私の背後に、ネルが静かに立った。床に叩きつけられた櫛ではなく、新しい櫛をお仕着せのポケットから取り出して、私の髪を梳いてくれる。
「アリシア様。今日はどんな髪型がいいですか?」
髪を優しく梳きながら笑顔を浮かべるネルと、鏡の中で視線が絡み合う。優しげな笑みを浮かべながら、ネルが私に優しく問い掛けてくる。
それを聞いて、ようやくいつもとは違う髪型にしてもらえるという実感が湧き上がってきた。
やっと髪型を変えてもらえる。いつもと違う髪型にしてもらえる。そう思うだけで、メアリーの態度に沈んでいた気持ちが浮き立っていく。
「あ……」
けれど、気持ちが浮き立ったのは一瞬だけ。どんな髪型がいいのかと聞かれても、咄嗟に言葉は出てこない。
昨日の昼食の時と同じ。希望も何も、今まで一度も聞かれたことなどなかったから。
だから改めて聞かれても、なんと答えていいのか分からない。言葉が喉に張り付いたように、口を開いても言葉が出てこない。
「どうされました?」
私が黙ったままでいることに、ネルが首を傾げる。答えが遅いと怒鳴られるだろうかと、一瞬体が震える。
でも、聞こえたネルの声に、いつものメアリーみたいな責めるような響きは感じられない。
ただ純粋に、私の答えを待ってくれているだけだった。
(でも、どう答えたらいいのかしら……)
鏡越しに私を見るネルは、不思議そうに私を見ているだけ。急かすことも、呆れている素振りも見えない。
そんなネルに本当の気持ちを伝えたら、ネルはどんな反応をするのだろう。
(でも……ここは黙っていても仕方ないし、正直に言ったほうがいいわよね?)
ぐっと拳を握りしめる。今までメアリーに言われてた言葉が頭をよぎるが、ネルはメアリーじゃないからと、自分に言い聞かせた。
自分の意見を伝える。ただそれだけのことが、こんなにも怖くなるなんて思わなかった。
「えっと……今までどんな髪型にするかとか聞かれたことがなかったから、どんな髪型にしたら似合うのか自分でも分からなくて……」
「聞かれたことがない……ですか」
声が震えそうになりながら、なんとか答えてみる。
どう答えていいのか分からなくて、よく分からない答えになってしまったけれど。
私の答えにぱちぱちと瞬きするネルと、私たちのやり取りを聞いて、深い息を吐きながらメアリーの出ていった扉を睨むルキア。
私が何も知らないことを、なんて言われるのだろう。呆れられるだろうか。メアリーのように「そんな事も知らないのですか?」と蔑まれるのだろうか。
そんな緊張感に包まれながら俯いていると、ネルがくすりと笑った気配を感じた。
馬鹿にされたのだろうか。そんなふうに感じていると、ネルは「アリシア様」と静かに声を掛けてきた。
「それなら私が決めてもいいですか?」
その声にぱっと顔を上げる。
馬鹿にするのでも、見下すのでもなく、鏡の中のネルは変わらず優しげに微笑んでくれていた。
「お願いしてもいいの?」
「はい。ばっちり可愛くしますね」
私が確認も兼ねてもう一度聞けば、ネルは満面の笑顔で応じてくれる。
どんな髪型にしようかな、と少し浮かれているネルを見て、自然と安堵の息が漏れた。
(良かった……メアリーみたいに否定されなかった。見下されなかった)
たったそれだけのことなのに、強張っていた体から力が抜けていく。
ドレスは変えられなかった。でも、髪型はいつもと違うものに変えてくれるという。
自分の意志ではなく、誰かに決められるのは今までと変わらない。
けれど、「いつもと同じ」ではなく、私に似合うようにと言ってくれるネルの気持ちが、何よりも嬉しかった。
(ネルは、どんな髪型にしてくれるのかしらね)
メアリーはいつも、当然のように他の使用人と同じような一纏めにするだけだった。
けれど櫛を通すネルの手は、メアリーとは違っていた。丁寧に櫛で私の髪を梳かし、ゆっくりと絡まりを解いていく。
メアリーにされている時は、髪を引っ張られるような痛さも、乱雑に櫛を通しているだけのような感触もあった。けれど、ネルの手つきからはそんな乱暴さは感じられない。
やっていることはいつもと同じなはずなのに、全てが流れ作業でせかせかと行われるメアリーとは違うゆっくりとした手つきに、不思議な気持ちになった。
「アリシア様の髪は真っ直ぐで羨ましいですね」
ネルが梳いてくれる私の髪を見ながら、ルキアがぽつりと呟いた。
「ルキアの髪は真っ直ぐではないの?」
ルキアの髪はいつもの私と同じように頭の後ろで一つに纏められている。昨日のルーティもネルも同じ髪型をしているから、この状態では皆の髪質は分からない。
「私はやや癖っ毛ですね。でも、私以上に、夫と娘が大変なのですよ。二人とも、もの凄い癖っ毛で、朝になると大惨事になるのです」
「もの凄い癖っ毛?」
ルキアの言うもの凄い癖っ毛の規模が分からない。どれくらい凄いのだろう。
私の知る人が少なすぎて、あまり想像が出来ないのだけれど。
そんなふうに思っていたら、ルキアがふふっと笑う。
「本当に凄いのですよ。朝になると髪はもじゃもじゃで、ちょっと絡まるどころの騒ぎではなく、酷い時には櫛を通すだけで一時間以上潰れることもあるくらいでした」
「櫛を通すだけで一時間……」
規模がうまく分かっていなかった私に、ルキアがそう教えてくれるけれど、それは確かに大変そう。
私はどれだけ時間が掛かったとしても、髪を整えるのに一時間も掛かったことはない。メアリーがいつも同じ髪型に固定するだけなのを思えば、櫛を通すだけなら下手をすれば数分も掛かっていないかもしれない。
そんな私とルキアの話を聞いて、ネルがくすりと笑った。
「シルの髪は遠目から見てる分には、綺麗にウェーブが掛かっていて羨ましかったですけどね」
「私も遠くから見てるだけなら羨ましかったと思いますよ。毎朝のあの騒動さえ知らなければ、ね」
そう言うネルに、ルキアも若干遠い目をしながら同意する。その眼差しに、本当に大変だったのだなと私も苦笑を浮かべた。
それにしても、シルとは誰なのだろう。
初めて聞いた名前。雰囲気からしてルキアとネルの知り合いみたいだけど。
「ネル、シルという人は知り合いなの?」
「私の娘ですよ。シルは愛称で、シルヴィと言うのです」
ネルに聞いたはずの私の問いに、ルキアが代わりに答えてくれた。話の流れからそんな気はしてたけれど、やっぱりルキアの娘さんだったらしい。
「ネルはルキアの娘さんとも知り合いなのね」
「はい。私とルーティ、それからシルは貴族学院の同期でしたから。もう一人いる別の友人も含めて、仲良し四人組でいつも一緒でした」
気になったことを聞いてみれば、ネルが明るく答えてくれる。質問してもちゃんと答えてくれることに、少しだけ頬が緩む。
それにしても、ネルとルキアは仲が良さそうとは思っていたけれど、我が家に来る前からの知り合いだったとは思わなかった。
(それにルーティとも知り合いだったなんて、世の中は広いのか狭いのか分からないわね)
「それでお兄様が真っ直ぐなのが羨ましいと、よく学院でも愚痴っていましたね」
「息子は前の奥様に似て直毛でしたからね。兄上ばかりずるいと、家でもよく騒いでいましたよ」
仲が良さそうな二人の会話が弾む。
私にはそんな共通の知人の話題がないから、誰かのことをそんな風に話せるのが羨ましかった。
(……でも、前の奥様って何? ルキアってどこかの貴族の後妻として嫁いだってこと?)
「あの……少しいい?」
「どうされました?」
気になったことを聞いてみたくて、盛り上がる二人の会話に、おずおずと声を掛ける。
すると二人は話を妨害されたことを怒るでもなく、その意識をごく自然に私に向けてくれた。
「今、【前の奥様】って聞こえた気がしたのだけれど、ルキアって今の旦那様の後妻か何かだったりするの?」
「そうですよ」
思い切って口に出してみると、ルキアはあっさりと答えてくれた。
あまりにも自然な返事だったから、逆に私のほうが拍子抜けしてしまう。
その軽い口調から、ルキアがその事を気にしているようには見えないけれど……これって、簡単に聞いていい話だったの?




