第1話:新しい侍女といつもと違うメアリー
「お目覚めでしたら洗顔をお願いします。メアリーは衣装室から今日のドレスを持ってきますから」
二人について何の説明もないまま、メアリーは淡々とお湯の入った桶をサイドテーブルに置いた。
メアリーのその仕草を見て、やっぱり、という気持ちが湧き起こる。
(……怪我をしていて腕を使えないという割に、お湯の入った桶は軽々と運んでこれるのね)
右腕は怪我をしていて使えない。
けれど普段のメアリーの立ち居振る舞いを見ていると、その言葉が嘘だったと感じてしまう。
桶を運ぶ手つきに、不自由さも、怪我を庇う素振りすらも見せないのだから。
じっとメアリーを見る私をよそに、私を一瞥することもなく、着替えのドレスを取りにメアリーは部屋を出ていった。
「ネル」
メアリーが出ていくのを見届けて、母と同年代くらいの女性が年若い子に声を掛ける。
名を呼ばれたもう一人の子は無言で頷くと、そのままメアリーの後を静かに追いかけていった。
「え……?」
けれど、動いた気配を感じさせないその子の動きに、私は驚きを隠せなかった。
(何、今の動き……何の気配もなく動いていたけれど)
足音も、衣擦れの音すら立てずにメアリーを追って部屋を出ていく侍女。
不思議な動きをする侍女を呆然と見送っていたら、残った女性が息を吐いた音が聞こえた。
「それにしても、何の説明もしてくださらないのは困りものですね」
呆然としていた私の耳に、小さく呟く声が聞こえる。
ちらりと視線を向けると、二人が出て行った扉を見ながら息を吐く女性。扉を見つめる顔は穏やかに見えるけれど、その声にはどこか呆れを含んだ色を感じた。
(そうね……私もその言葉には全面的に同意したいわ。何の説明もなしに見知らぬ人と二人きりにされても、私だって困るもの)
新しく部屋に来たこの二人が誰なのか、出て行った彼女がどうしてあんな動きが出来るのか、気になることが多すぎる。
きっと新しい専属侍女だとは思うけれど、まだ正式に名乗られてはいない。
せめて目の前にいる人が誰なのかだけでも聞こうとして、私はそっと目の前の女性に話し掛けた。
「あの……貴女はどなたですか? どうして私の部屋に?」
「ああ、申し遅れました。私はルキア。先程部屋を出ていった子はネルと申します。今日からアリシア様の専属侍女としてお仕えすることになりましたので、宜しくお願いしますね」
私の声かけに、ふわりと優しい笑みを浮かべながらそう名乗るルキア。私の予想通り、ルーティに続いてまた新しい侍女が増えたらしい。
昨日もこんな感じでルーティが専属侍女だと名乗っていたけれど、まさか二日連続で同じ光景を見ることになるとは思わなかった。
でも、それはそれとして、私はもう一つ気になっていることを聞いてみた。
「母は、私の専属侍女を増やしたくなかったのではなかったのですか?」
メアリーの言っていたことを思い出して、私はそっとルキアに聞いてみた。
私の言葉にルキアがピクリと眉を動かす。けれどもそれも一瞬のこと。次の瞬間にはどこか困ったように苦笑するルキア。
「それを言ったのはメアリーですか?」
「はい……」
言い方的に、メアリーがやらかした諸々をこの人も知ってるらしい。私の返事を聞いて、ルキアは静かに息を吐いた。
「私はシエラにそのような話を聞いてはいません。それもまたメアリーの嘘でしょう」
「シエラ?」
雇用主である母を呼び捨てにするルキア。
それに驚いていると、「ああ、失礼しました」と苦笑するルキア。
「貴女の母、シエラは私の貴族学院時代の友人なのですよ。私がここにいるのも、娘の侍女を探しているというシエラに頼まれて、という経緯があるのです。もし真偽が気になるのでしたら、シエラに直接聞いてはいかがですか?」
微笑みながらそう説明してくれるルキア。
母の友人で、母に頼まれたから私の専属としてここにいる。それが本当なら、この人は母側の人ということになる。
けれど、それもどこまで信じていいのか分からない。メアリーの言葉に振り回され続けてきたからか、誰かの言う言葉に過敏になっている気がする。
それにルキアはそう言うけれど、本当に母に聞いても良いのかすら、今の私には分からない。
確かに母とは昨日和解した。だからといって、一日で何もかもを相談できる関係になれたかと言えば、答えは否だもの。
判断に迷った私は、昨日頼りにしていたルーティを探して、きょろりと部屋を見渡してしまう。
けれどもどれだけ部屋を見渡しても、どこにも頼りにしていたルーティの姿はなかった。
「あの……ルーティは今日はいないんですか?」
「ルーティは本日お休みをいただいていますよ」
不安を抑えながらルキアにそう聞いてみれば、ルキアは何ということもなく答えてくれた。
「お休み?」
「ルーティが臨時の侍女だということはご存知ですか? 今日は用事があって、本来の主の元に戻っているそうです」
本来の主。それを聞いてチクリと胸が痛くなる。
そうだった。ルキアに言われるまで忘れていたけれど、ルーティは我が家の正式な侍女ではない。
いつかこの屋敷からいなくなって、本来仕えている主のもとに帰ってしまう人なのだ。
(……ルーティは、いつまでも私の側にいてくれるわけじゃないのよね……)
それを思うと胸の奥がすうっと冷たくなっていく。
昨日一日で、ルーティは色々なものを変えてくれた。
私の知らなかったことを教えてくれた。昼食を持ってきてくれた。メアリーやバルトに反論してくれた。私を蔑ろにする侍女に怒ってくれた。
私の世界を変えてくれたのは、ルーティだったのに。
私が自分の見聞きしたもので世界を作っていきたいと思えたのも、ルーティのおかげだった。
なのに今日はルーティがいない。それだけで、昨夜固めたはずの決意が揺らいでしまいそうになる。
(でも、ルーティがいなくても、ちゃんとしなきゃ)
心の中でそう自分を奮い立たせる。
これから先、ルーティがいなくなっても一人でやっていけるように。そのためにも、しっかりしなければと決意を固め直した。
「それより、メアリーがドレスを持ってくる前に洗顔をお願いしますね」
「ええ」
私からの質問が止まったのを見計らって、ルキアが声を掛けてくる。
そうね。メアリーが戻ってきてまた何かを言われるのは嫌だもの。私はルキアの言うまま、少し冷めてしまったお湯に手を入れ、メアリーが戻る前に手早く洗顔を終わらせた。
ルキアに渡されたタオルで顔を拭いていると、扉の向こうから足音が聞こえた。ガチャリと扉が開く音が聞こえて視線を向ければ、メアリーとネルがドレスを手に戻ってきた。
メアリーが持ってきたのは、いつものドレス。
いつもと何も変わらないはずの光景なのに、ディナンと関わりがあるとされるロイヤルブルーが視界に飛び込んできた瞬間、背中を寒いものが通り過ぎた。
「っ……」
そのドレスが目に入った瞬間、私は息を呑んだ。
昨日までは何も感じなかった。けれど、そのドレスに込められた意味を知ってしまった今、その色を見るだけで背筋がぞわりと粟立つ。
ディナンに嫁ぐという意思表示。そんな色を纏いたくないと、心が静かに拒む。タオルを握る手に、思わず力がこもった。
「お待ちなさい」
メアリーが差し出してきたドレスを見て、ルキアが制止の声を掛ける。
「貴女、このドレスにどんな意味があるのか知っていて持ってきたの? それともそんな意味すら知らずにアリシア様に着せているとでも言うつもり? それで専属を名乗るなんて、烏滸がましいとは思わないのですか?」
ルキアの言葉を聞いて、舌打ちするメアリー。
その態度を見て私は、昨日のルーティとメアリーの喧嘩を思い出した。
ルーティが何か言うたびにメアリーが噛み付いて、険悪な空気が流れた昨日。恐ろしい形相を浮かべながら、お風呂場で強い力で私の腕を握り締めてきた昨夜のメアリー。
あんなふうにまた、メアリーが怒鳴り出すかもしれない。その恐怖が体を包む。
「……お嬢様のドレスはこれしかないだけです」
けれど私の警戒心とは裏腹に、メアリーは静かに淡々と答えるだけ。
ルキアの言葉に、メアリーが視線を逸らしながら小さく言い訳をするだけ。そこには昨日の激しさも苛立ちも、何も感じない。
その声の小ささに、感情のこもらない声に、逆に妙な違和感を感じた。




