プロローグ
まどろみの中からゆっくりと意識が浮上する。
目を開ければ、視界に入るのは見慣れた天蓋のカーテンに区切られた私の部屋。
(……いつもと何も変わらないのに)
見慣れた景色にちくりと胸の奥が痛むのを感じた。
静かで、薄桃色の花が咲くあの場所も、優しく私を見つめる紫色の瞳も、ここにはない。
先程まで直ぐ側にあった温かな温もりは、目を開けた瞬間に消え去ってしまった。
彼とゆっくりと過ごせる時間が終わり、いつもと変わらない時間が始まりを告げる。
「時雨……」
呟いた声は自分でも驚くほど小さく、か細かった。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かんでくるのは彼の姿。濃紺色の髪と紫色の瞳を持つ彼。
優しく微笑んで、私の話を聞いてくれた。私の話を否定せず、決めつけず、優しく導いてくれた。
私が決めていい。信じられないなら信じなくていい。割り切れないなら割り切れなくてもいいと言ってくれた。
誰にも言ってもらえなかった言葉を言って貰えて、心は軽くなる。それでも現実に彼はいない。
傍にいない喪失が苦しくもあるけれど、昨日の朝に感じたような激しい喪失感を、今朝は感じなかった。
二日連続で会うことが出来たからかもしれない。また会えたという事実が、少しだけ会えない悲しみを和らげてくれているような気がした。
「……うん」
ベッドから身を起こして、私の体を包んでいた布団を押してみる。程よい柔らかさと弾力性が手に伝わってきた。
その確かな感触が静かに告げていた。あれはやはりただの夢で、私はずっとこの柔らかい布団の上で眠っていたのだと。
彼の足を枕にして、あの硬い地面に横たわっていたのではない。薄桃色の花が咲くあの場所は、ただの夢なのだと。
「……でも、時雨と話した内容は全部覚えているのよね」
あれはただの夢。
それなのに、先程まで隣にいて会話をしていたかのように、時雨の言葉一つ一つが脳裏に焼き付いている。
眠る前は、色々なことが起きて混乱していた。
今までずっとメアリーに言い含められていたことが嘘だったのだと知った。強い力で暴力まで振るってくるメアリーに恐怖を感じた。何を信じて良いのか分からなくなって、縋るように時雨に頼った。
「本当に……優しかったな」
夢を思い出すだけで、心が少し温かくなる。頭を撫でてくれた優しい感触が、まだ残っているような気がした。
時雨は、私の言葉を否定しないで聞いてくれた。
その上で私は何を信じたいのかと聞いてくれた。
話を聞いてもらえない、使用人にすら無視される私にとっては、初めてに近い経験だった。
「私は何を信じたい? 私はメアリーを信じられる?」
目を閉じて、昨夜感じたことをもう一度言葉に出してみる。
答えは相変わらず出てこない。ただ一つだけ分かるのは、メアリーの言葉をもう前のようには信じられそうにないということだけ。
昨日寝る前に感じていた焦りも恐怖も、今はもう感じない。
時雨と話して、私は一つの答えを手に入れたから。
「私は私の見聞きしたもので、世界を作り直すの」
昨日時雨に誓った言葉を、もう一度口に出してみる。
声に出すと、胸の中にその言葉が静かに響き渡る。時雨と交わしたその誓いだけは反故にしたくないと、素直にそう思えた。
そんなことを考えていたら、部屋の扉が開かれる音が聞こえた。
ベッドに近付いてくる足音に、メアリーが起こしに来たのだと理解して、体が僅かに震えた。
昨夜のメアリーの姿が頭をよぎる。見たこともない怖い形相で私を睨みつけて、怪我をしてるとは到底思えない強い力で私の腕を握って、怒鳴りつけるように私を言いくるめようとしたメアリー。
また昨夜のように怒鳴られたらどうしようと、体が緊張に包まれる。
近寄ってくる足音が耳に届いて、体が強張っていく。
それでももう、私は負けたくない。部屋に来たのはメアリーだけじゃなくて、ルーティもいるはずだから。
誰かの……メアリーの言いなりになるのはもうやめると、昨夜時雨に誓ったのだから。
その誓いを胸に、私はメアリーがカーテンを開けるのを、ベッドの上で緊張しながら待った。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、メアリー……あら?」
けれど、警戒していたメアリーに昨日の激しさは感じられない。拍子抜けするほど淡々とした口調で、静かにカーテンが開けられていく。
メアリーの後ろに、ルーティの姿はない。代わりに見慣れない侍女が二人。
「誰……?」
ポツリと声が漏れた。私の知らない、全く見覚えのない人が目の前にいた。
(……母は、私と見知らぬ人を会わせるのを拒んでいるのではなかったの……?)
そう思いながらまじまじと二人の女性を見てしまう。
一人は母くらいの年齢の人。黄土色の髪に緑色の瞳の女性。落ち着いた佇まいで、どこか包容力すら感じる女性。
もう一人は灰色の髪に藤色の瞳の、こちらは私やルーティに年が近そうな若い女性。年齢こそ若く見えるのに、その佇まいはずいぶんと落ち着いて見える。
我が家のお仕着せを着て、他の使用人と同じように髪を一纏めにしていた。身なりだけを見るのであれば、この二人も我が家の使用人なのは確かなのだけど。
(……昨日の光景、再び?)
ルーティが専属侍女として部屋に来た時もこんな感じだったのを思い出す。
初めて見たルーティを誰だろうと思っていたら、メアリーは苛立ちを隠しもせず、何も説明せずに部屋を出ていった。そして残されたルーティが私の専属侍女になったと名乗ってくれたのが昨日のこと。
メアリーはずっと、母が専属侍女を増やしたくないと言っていたと、私に言い聞かせ続けてきた。母は私と見知らぬ人を合わせるのを嫌がっていると言っていたのに。
それにも関わらず、私の専属侍女は昨日いきなり増えた。
(ルーティが言うには、私の専属侍女が増えないのは、メアリーと合わないから……だったわよね)
最初はどちらが嘘をついているのか分からなかった。
けれど、ルーティの言葉を裏付けるように、昨日一日でメアリーの嘘が次々に暴かれていった。昨日だけでもかなりの嘘が明るみに出たけれど、他にもあると言われても不思議ではない。
これもきっとその一つ。専属侍女を増やしたくないと言っていたメアリーの言葉に反して、私の専属侍女は増えた。
それなら母が専属侍女を増やしたくないと言ったその話も、また嘘だったのかもしれない。
それでも見知らぬ人が私の寝室にいるというのは、それだけで落ち着かない。
この二人が一体誰なのか、誰か説明してほしいのだけれど?




