第13話:不安定な心
風が頬を撫でる感じがする。
目を開けると、薄桃色の花が満開に咲く巨木が見えた。
(また、あの夢……?)
見覚えのある景色に、荒れていた気持ちが落ち着いていく。昨日はあの木を見ながら時雨と話をした。
今日も時雨に会えるのかな? と思いながら、真正面にある薄桃色の巨木をぼんやり見ていた。
それでも今日一日で色々な体験をした頭はうまく回らない。
分からないことばかりが眼前に突きつけられて、もう何も考えたくなかった。
メアリーが変わってしまったことも、目の前に見える木がどうして横から生えているのかも、体に触れる何かが冷たくて固い理由も。
(……木が、横から生えている?)
そこでハッと気が付いた。木が横から生えるわけがない。自分の視界が横になっているのだと。
『めーちゃん、気が付いた?』
最近よく聞く不思議な言葉が耳に届く。頭の上から降ってくる声に、恐る恐る視線を向ける。心配そうな時雨が、私を見下ろすようにこちらを見ていた。
どうやら私は地面に寝転んでいて、時雨に膝枕をしてもらっていたみたい。
男性に膝枕をしてもらうというその羞恥から、慌てて起き上がろうとした私を、時雨は苦笑しながらそっと抑えた。
『無理しなくていいよ。少し寝てたらいい』
時雨にそう言われて、飛び起きようとした私の体はまた地面に吸い寄せられる。
自分の体勢に妙な気恥ずかしさはあった。それでもそこにある気遣いが嬉しくて、私はそのまま時雨の足を枕に寝転んだ。
二人の間に沈黙が流れる。
時雨は何も言わない。何も聞かない。
ただ静かに私の頭を撫でてくれる。それだけで、現実で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ気がした。
静かで、穏やかな時間。目まぐるしく色々なことが変化した日常で混乱した頭が、ゆっくりと落ち着いていく。
『ずっとこのままここにいられたらいいのに』
『めーちゃん?』
『そしたらずっと、時雨と一緒にいられるのに』
私の喉からも、相変わらず不思議な音が鳴り響く。けれどそんなことは気にならないほど、私の心は疲れ切っていた。
言葉と同時に、涙が溢れる。口から出てきた言葉の意味に自分でも驚いたけれど、その言葉に嘘はない。
私の呟きに、時雨が頭を撫でていた手を止める。
『何かあった?』
その一言に胸の奥で何かが蠢く。
うん、色々なことがあったの。そう言いたいのに上手く言葉にできない。今日一日起きた出来事を思い出すだけで、胸が一杯になって苦しくなる。
時雨と一緒にいる時間にまで、あの感情を持ち込みたくないと言う気持ちが浮かび上がる。それでも頭の中はぐるぐると回っていて、誰かに話を聞いてほしくてたまらなかった。
『……聞いてくれるの?』
『いいよ』
静かに私がそう切り出せば、時雨はあっさりと頷いてくれた。
その言葉の軽さにホッと息を吐いてから、私は時雨にゆっくりと話し出す。
幼い頃に誘拐されたこと。その時にメアリーに救われて、それからずっとメアリーが専属侍女として側にいてくれたこと。
なのにそのメアリーは、私に対して「仕えてあげた」という。自分の言うことを聞けと、力で従わせようとした。右腕が使えないと言っていたのに、実際は痣ができる程の強い力を秘めていた。
両親のこともそう。ずっと冷たくされていたと思っていたのに、話しかけた本当の両親はとても優しかった。
メアリーがずっと間に挟まっていたことが発覚して、メアリーに与えられた偽情報を信じていた両親と私の間にあった見えない壁が可視化された。
『ずっとメアリーに【出来ない】って言われてたのに、ルーティがちゃんとした食事を初めて持ってきてくれたの。それで、もう分からなくなっちゃった。私が今までメアリーから聞かされてきたことって何だったの? メアリーは私を助けてくれた恩人で、ずっと側にいてくれた大事な人で、なのに裏でそんなふうに動いていたなんて……もう、何を信じたらいいのか分からないの』
ぼろぼろと涙が止まらない。言いたいことを全部ぶちまけて、息を吐く。
言葉にしたら余計に苦しくなると思っていたけれど、少しだけ胸が軽くなった気がした。
時雨は、黙って私の話を聞いてくれていた。話を否定されない、遮られない。ただ黙って話を聞いてもらえるだけの状況がこんなにも嬉しく思える。
私が言いたいことを言い終えたのが時雨にも分かったのだろう。そっと私の頭を撫でながら、「辛かったね」と言ってくれた。
途端にまた涙が溢れ出す。話を聞いてくれただけでなく、受け止めてもらえた。その事実が、たまらなく嬉しかった。
そう言われて、また一つ気付く。私は辛かったんだと。
ずっと信じてきたメアリーを疑わなければいけなくなって、私の言っていない言葉で屋敷の中が動いていると知って、私は辛かったんだ。
『私、どうしたらいいの? 何を信じたらいいの? もう、何も分からない。時雨、私はどうしたらいいと思う?』
『んー……』
混乱したまま吐き出された私の言葉に、時雨は困ったように苦笑した。
(あ……)
時雨を困らせた。その表情にすっと涙が止まる。
そうよね。こんな話を聞かされて、「どうしたらいい?」なんて聞かれたって困るだけよね。
『ごめんなさい、私……』
『めーちゃんが謝ることじゃないよ。僕としては、めーちゃんの信じたいものを信じればいいんじゃないかなーって思ってただけだから』
私の謝罪に、時雨は苦笑しながらそう言った。
何を信じればいいのか分からないのに、どうしてそう思ったのだろうか。
『私の信じたいもの?』
『今のめーちゃんに言うのは酷かなとは思うけど、僕が揚羽たちに言ってた言葉をめーちゃんにもあげるね。めーちゃん、【先入観は見方を変えるよ】。だから事象と感情は切り分けて考えたほうがいいと思う』
『その言葉……』
時雨の言葉にピクリと体が動く。同じ言葉をルーティも言ってたのを思い出したから。
時雨とルーティは繋がっているの? 一瞬そう思ったけど、私の頭はそれとは別の言葉に引っかかっていた。
『先入観って……?』
私の言葉を聞いて、時雨はどんな先入観を感じ取ったのだろう。
そう思って聞いてみると、時雨はくすりと笑みを浮かべて教えてくれた。
『【助けてくれた恩人】って部分かな。その人、どうしてめーちゃんを助けたの?』
『どうしてって、それは……』
時雨に聞かれて、答えに詰まる。
そういえば、どうして助けようと思ったのか、メアリーから聞いたことがなかった。
メアリーからいつも聞かされていたのは、私を誘拐犯から助けてくれたこと。その時に右腕に大きな怪我を負ったこと。その傷のせいで婚約破棄をされて、細かい作業が出来なくなったことだけ。
どうして私を助けようと思ったのか、どうやって私を助けたのか……そう言った話を、私はメアリーから一度も聞いたことがなかったのを思い出す。
黙り込んだ私を見て、時雨が苦笑する。
『正直、刃物を振り回すような人間から誰かを助ける理由って、そんなに多くないと思うんだよね。めーちゃんならどう? めーちゃんの目の前で、見知らぬ子供が刃物を振り回す誰かに誘拐された時、めーちゃんならどうする?』
『私なら……』
時雨に言われて、想像してみる。夢の中で何度も見た風景。あれがもし私でなかったら。
連れ去られ泣き叫ぶ子供がいたとして、私はどうしただろう。きっと通り過ぎていく男を見て驚くだけか、何かをするのだとしてもせいぜい憲兵隊に連絡するかくらいだろう。
私がそう告げると、僕もそんな感じだと思うと時雨も頷いた。
『でも、もしそれがめーちゃんの何より大事な人だったらどうする? 抗う力を持たないその人が目の前で拐われたら、めーちゃんならどうする?』
時雨にそう聞かれて、私は言葉に詰まる。そんな人がすぐに思いつかなかったから。
今まで何より大切だったのはメアリーだけど、今の私はもうメアリーを助ける気にならないもの。
(でも、そうね……もし時雨が5歳位の子供で、夢で見た時と同じように誘拐犯に私の目の前で連れ去られたとしたら……)
そう考えながら、先程と同じように想像してみた。
けれど、それを思い浮かべた瞬間、背中をゾッとしたものが通り過ぎた。
目の前で連れ去られる時雨。誘拐犯に連れ去られ、泣き叫ぶ彼。そんなものが眼前に突きつけられて、私は先程と同じ答えを出せるのだろうか。
ちらりと時雨を見上げる。その瞳は静かに私の答えを待っていた。
その紫色の瞳を見て、私は一つの確信を得る。
(ううん……絶対に無理な気がする。だって私は、彼を失えないと思っているのだもの)
腕を伸ばして、時雨の頬に触れる。その手に、時雨に触れているという感触がある。
『めーちゃん?』
私が手を伸ばしたことに、どこか驚いているような時雨。
それでも触れた手は拒まれない。私がしたいようにさせてくれる時雨を見ながら、私は口を開いた。
『……何をしてでも助けると思うわ』
『怪我をするかもしれなくても?』
『それでも、黙って見てられないもの! 憲兵に連絡しなきゃとか、怪我をするかもとか、そんなの考えられない! 私の目の前で貴方が拐われるなんて……』
『……僕?』
焦ったような私の言葉を聞いて、目を丸くする時雨。
そのまま、想定外の答えを聞かされたように苦笑した。
『僕がめーちゃんを守る側だと思うんだけどなぁ……』
『だって、他に思いつかなかったんだもの。今の私には、貴方以上に大事な人なんていないのよ!』
私がそう宣言すれば、時雨はどこか嬉しそうに笑った。
『でも、そっか。めーちゃんは僕に何かあったら、助けようとしてくれるんだ。……本当は、めーちゃんのほうが危険なのにね』
『時雨?』
その言い方に、どこか引っかかった。
そういえば前に会った時にも、「僕は逃げられない」と言っていた。今度は「私が危険」だという。
時雨は、何を言っているの? 何を知っていて、何から逃げられないと思っているの?
『めーちゃん』
『何?』
そう微笑む時雨はどこか寂しそう。
これから聞かされる言葉を聞きたくないと心が訴える。時雨に何を言われるのか分からないはずなのに、心臓が嫌な音を立てる。
『それでも、いざという時には僕を見捨てて。僕のことは、気にしなくていいから』
静かにそう言う時雨。
その瞳には、どこか諦念が滲んでいる気がした。




