第1話:変わらない日常
「お嬢様、おはようございます」
メアリーの柔らかな声が耳に届くのと同時に天蓋のカーテンが開かれて、窓から差し込む光が私の意識を刺激した。
けれど眠りから覚めても私の体は布団にくるまったまま。昼間は春めいた陽気にはなってきているけれど、朝の冷え込みはまだ冬のそれに近い。冷たい朝の空気を前に、私の意識はまだ布団の温もりに包まれていたいと抵抗を見せる。
「ほらほら、起きてくださいませ、お嬢様。旦那様も奥様も、食堂でお嬢様をお待ちですよ?」
そんな私の抵抗をあっさりと破るメアリー。背中まで流れる薄桃色の髪をきっちりと二つに結って、きりっとした顔で私の布団を剥ぎ取っていく。
途端に朝の冷たい空気にさらされて、私はつい恨みがましい目でメアリーを見た。
「メアリー……」
「朝ですよ、お嬢様。さ、早く身支度を済ませましょうね」
けれどそんな私の恨み言などメアリーには通用しない。笑顔のまま私の起床を待つメアリーに、私も仕方なく眠い頭を動かしながら体を起こした。
「おはよう、メアリー」
「はい。おはようございます、お嬢様」
軽い挨拶を交わして、私はベッドから足を下ろす。私がメアリーの用意してくれたお湯で顔を洗っている間に、メアリーは衣装室に向かう。温かなお湯で顔を洗い、タオルで顔を拭いていると、衣装を片手に戻ってくるメアリー。
「さぁ、洗顔が済んだらお着替えですね」
そう言うメアリーが手にするのはいつもと同じロイヤルブルーのドレス。上質な生地を使っているのは分かるのだけれど、毎日同じドレスに心が少し沈んでしまう。
昔は「毎日同じドレスはちょっと……」と否定していた時期もあったのだけれど、母が私のために用意してくれたドレスではない、これとは違う色のドレスを着たいと言うのは、さすがに憚られた。
それに、完全に同じドレスを着ているわけでもないみたい。メアリー曰く、縫ぬわれている刺繍が違うとか、襟の模様が違うとか細かな違いを挙げてくるけれど、それ以前に私はもっとこれではない別の色も着てみたかった。
(それが叶わないと知ったのはいつだったかしら)
朝から憂鬱な気持ちになりながら、私はドレスに袖を通す。毎日同じ色のドレスを着ることにもう抵抗はない。どれだけ訴えても、私の願いが叶うことはないと知っているのだから。
「お似合いですよ、お嬢様。お嬢様にはやはりこの色がお似合いですね」
背中の留め具を留めながらメアリーが褒めてくれるけれど、私の心は沈んだまま。私の金髪にはこの色が映えるとメアリーはよく言うけれど、私の心はこれじゃないと訴える。
私が纏いたいのはこれではない、この色ではないと騒ぐ心を沈めながらメアリーにありがとうと告げれば、メアリーは満足そうな顔で笑う。
「さ、次は髪ですね。こちらへどうぞ」
メアリーに呼ばれ鏡台の前の椅子に座らされる。櫛を滑らせ、絡まりを解きながらメアリーは私の髪型を決めていく。
迷いなく動く指先。毎日同じように動かしていつもと同じ髪型にするだけの動きに、今日も昨日と変わらない一日が始まったのだと実感する。
ロイヤルブルーの石が付いた髪留めの音がして、「いつもの私」が完成する。
毎日同じドレスに同じ髪型。
今日もまた昨日と何一つ変わらない私の一日が、静かに始まった。
メアリーに連れられて、私は両親の待つ食堂に向かう。扉の前で控えていた使用人が、私の姿を認めると静かに開けてくれる。
「おはようございます」
「ああ。おはよう、アリシア」
「おはよう」
長いテーブルの上座に腰掛ける両親に声を掛ければ、父の弾んだ声と母のそっけない挨拶が私を出迎える。
私を見てこちらにおいでと手招きしてくれているのが、私の父、カーネル・ルフ・フロイライン。
そして私に視線を向けることもなく短く声を寄越してきたのが母のシエラ・フロイライン。
手招きを見て、父の専属執事のバルトが一つ咳払いをして父を諌める。父の背後に立つこの家の統括執事には父も頭が上がらないのか、その咳払い一つで手招きをやめる父。
最初は父の手招きに応じていいのか、断るのも失礼に当たるんじゃないかと悩んでいた。そんな風に悩む私に、メアリーが見かねて言ったのだ。
「あれは社交辞令です。間に受けて、奥様の機嫌を損ねてはなりませんよ」
あまりにも真剣な声色に、私は頷くしか出来なかった。
それ以来私はニコリと父に微笑むだけにして、長いテーブルの上座に座る両親から離れた下座の席に座るようにしていた。
母の……ううん、奥様の機嫌を損ねて家を追い出されでもしたら、困るのは私だもの。
だって私は、この家の本当の子供ではないのだから。
子供の頃から感じていた違和感。親子だと思うには程遠い距離感は髪色を見るだけでも分かる。
私の髪は陽の光を写し取ったような鮮やかな金髪だけど、父の髪色は薄緑色で、母の髪色は灰色。落ち着いた色の髪を持つ両親と違って、私の鮮やかすぎる髪色はこの家では完全に浮いている。
あまりにも両親と色が違いすぎて、子供の頃、冗談半分にメアリーに聞いたことがある。私は本当はこの家の子じゃないの? って。
そしたらものすごく慌てたように、メアリーが「話したことを両親に内緒にしてくれるなら」と言うので、それを約束すると、こっそりと私のことを教えてくれた。
曰く、私は本当にこの家の子ではないのだそう。
メアリーの話では、私の本当の両親は父の縁戚の人なのだという。
だけど本当の両親は、働き手となる男の子が欲しかった。なので娘の私は要らないと、子供が出来なくて跡取りに困っていた今の両親に養子として差し出したのだと。
本当の両親が会いに来たこともないし、両親からも直接そうだと言われたわけではない。
なので、正直なところメアリーの言う話が本当なのかは分からない。
けれど、日頃の私に対する態度を見ていれば、それもあながち嘘ではないのかなと思えてしまう。
(だって……)
私はそっと両親に視線を向ける。
長いテーブルの上座に座る両親と、下座で一人ぽつんと座る私。
この距離がそのまま心の距離のように感じられてしまう。
私と両親の間にはこれだけの距離ができているのに、それでも母は……奥様は何も言わない。声をかければ返事はしてもらえるけれど、視線を向けられることもなく、存在を認識されているのかどうかすら分からない。
旦那様は娘ができて嬉しかったのか、手招きはしてくれる。けれど決してそれに甘えてはいけないと、メアリーから幼い頃から何度も言われ続けてている。
本当の家族ではないのだから、距離の取り方はちゃんと弁えろと。
(そんなこと……言われなくたって分かってるわ)
きゅっと唇を噛み締める。
「アリシア様。給仕が運んでこられませんので、お早く席にお座り下さい」
「はい」
扉の前で立ち尽くす私に、母の専属で屋敷の統括もする侍女長ミリアが声を掛けてくる。そうね、いつまでも立っていたら迷惑だもの。私はミリアの言葉に従って、いつもの席に腰掛けた。
気持ちを落ち着けるために小さく息を吐いたところで、給仕の侍女が朝食を運んでくる。全員の前に皿が並べられ、各々の食事が始まっても、会話の一つもなく食堂は静かなまま。ただカトラリーの音が静かに響くだけ。
なんの会話もない、ただ食事を胃に収めるだけの時間が過ぎて、食事は終わった。
朝食を食べ終えると、二人は食後のお茶を一口だけ飲んでさっと席を立ち、私を一瞥してから食堂を後にする。
旦那様は仕事に、奥様は貴族の婦人たちとのお茶会に出掛けるために。
あっという間に私は食堂に一人取り残される。
食器を片付ける使用人たちが食堂を動き回るけれど、私を気にかけることはない。両親に置いていかれた私を気遣ってくれる人なんて、この屋敷にはメアリー以外誰一人としていない。
昔からそう。わがままを言えない私に、メアリーが自室でのお茶会を勧めてくれなければ、私は毎日部屋で一人泣いていたのだろう。
(メアリーとのお茶会が、どれだけ私を救ってくれていたか)
「お嬢様、今日もお茶会の準備を致しますか?」
食事が済んでも席を立たない私を見かねたのか、メアリーがそっと声を掛けてくる。
その声で我に返って周囲を見渡せば、私の退室を待つ使用人たちのいくつもの視線が向けられていた。
ああ、そうね。いつまでも私がここにいれば使用人たちの邪魔になる。私の居場所は、ここにはないのだから。
「そうね、お願いするわ」
「かしこまりました」
だから早々に引き上げなければ。私がそう答えれば、メアリーはお茶の準備をするために調理場に向かっていく。
私も席を立ち、誰に付き添われることもなく一人で部屋に戻る。
悲しい気持ちを押し隠したまま、ベッドに寝転んでメアリーがお茶とお菓子の支度をしてくれるのを待つ。
(……この一人で待っている時間がとてもつらいのよね)
部屋の外で使用人たちが動き回る音が聞こえる。なのに私の部屋には誰もいない。
まるで世界に独りきりで、取り残されているような気持ちになる。
それでも私は何も言えない。メアリーが私のために、お茶菓子を用意するようにと料理人にお願いしてくれているのだから。
そうでなければ私は昼食にも、僅かなお菓子にすらありつけない。我が家の料理人たちは、私のためだけに何かをすることを厭うのだから。
(……お茶会の準備をしてくれるメアリーの気持ちは嬉しいの。でも、それでも私はね……)
本当は、お茶よりも、お菓子よりも。
誰かが側にいてくれる方が、ずっと嬉しいのよ。




