プロローグ
ああ、またあの日の夢だと思った。
見知らぬ男性が、私を小脇に抱えて町中を走り抜ける。
昼の陽光が街を照らしていた。男に連れ去られる私の姿を照らしていた。
それなのに通り過ぎる人たちは、刃物を手に持つ男に怯えて誰も私を助けようとしない。
(怖いよぉ、助けてよ)
夢だと分かる。なのに、私が感じる恐怖はあの時の気持ちそのままで。
声にならない叫びが、胸の中でぐるぐると回る。叫びたいのに、幼い私の喉は張り付いたように動かない。
男の腕の中で暴れてみても、小さな体では何の抵抗にもならなかった。
(嫌だよ、助けてよ! ――!)
幼い私が心の中で「誰か」の名前を叫ぶ。けれどその「誰か」は決して私を助けることはない。
私が望んでいた「誰か」は、私の側にいないのだから。
それが悲しくて、私の瞳から涙が溢れた。
『さあ、メイ様。国王がお待ちかねですよ。早くあるべき場所に帰りましょうね』
男の声は周囲とはまるで違う音をしていた。言葉の意味は分かるのに、その響きはいつも使っている王国語ではない。
そう呟く男はどこか恍惚としていた。長年の悲願が叶う。そんな熱を孕んでいた。
『いや! 私が探してるのは、会いたいのはその人じゃない! 私が、私が会いたいのは……!』
男の腕の中でもがきながら、私の喉からも同じ音が飛び出した。
じたばたと暴れてみても、男の拘束は揺るがない。むしろ私を落とさないようにと余計に強くなった。
(会いたいのに、どうして貴方は側にいないの? いつもみたいに「ごめんね、めーちゃん。遅くなった」って言って、助けてよ!)
幼い私は、誰かの姿を思い浮かべながら泣きじゃくる。
でも、今の私にはそれが誰なのか分からない。
男が走り抜けた先に、大きな建物の門が見えた。重厚な石造りの門。その前に、王都を出ようとしている行商人が並んでいるのが見えた。
男は門を見てニタリと笑う。
(本当に私は、貴方に会えないまま連れ去られてしまうの? 貴方を苦しめてきたあの男の元に、本当に行かなければならないの?)
悲しくて胸が痛い。嗚咽が喉から溢れる。
会いたくない人は私を願うのに、会いたい貴方にはもう会えない。それが何よりも悲しかった。
(どうして? どうして助けに来てくれないの?)
私が望むのはただ一人、「彼」だけなのに。それなのにどうして「彼」は、私の側にいないの?
会いたいよ、嫌だよ、助けてよ!
私の瞳から涙がこぼれ落ちる。涙が止まらなくなって、視界がぼやける。
近付いてくる石の門。それを見て、私はぎゅっと目を閉じた。
本当にもう会えないの?
貴方に会えないのなら、私は……――
そこで私の意識は暗転した。
* * *
「っ!」
はっと目を覚ます。
部屋の中はまだ暗い。窓から月明かりが部屋に差し込まれて、天蓋の白いカーテンを照らしている。
「はぁ……やっぱり夢だったのね」
バクバクと早鐘を打つ心臓がうるさい。それでも声に出すことで、湧き上がる現実感。
(あれはただの夢。ここは私の部屋で、今は夜なんだから)
私を照らす陽光も、眼前に迫った石造りの門も、ここにはない。
そうと分かっていて、それでも呼吸は荒いまま。
ふぅ、と息を吐く。気持ちを落ち着かせるために、ベッドのサイドテーブルにある水差しからコップに水を汲んで、それを一気に飲み干した。
冷えた水が喉を通る感触が気持ちいい。僅かばかり残っていた胸の不快感が消えた気がした。
水を飲んだことで、気持ちは落ち着いた。
けれども不快感と一緒に、眠気も何処かに行ってしまったみたいだけど。
「このままベッドにいても眠れそうにないわね」
苦笑を浮かべながら独りごちる。このままベッドにいても、あの男に拐われる不快感に包まれていそうだもの。
(眠気が訪れるまで少しバルコニーにでも出ようかしら)
私は眠るのを諦めて、天蓋のカーテンを開けてベッドから降りた。
キィ……という小さな音を立てて、部屋のバルコニーに繋がるガラス戸を開ける。
風のそよぐ音と、鳥の鳴き声しか聞こえない静かな夜。
春になったとはいえ、体に当たる夜風はまだ少し冷たい。けれどその冷たさが、夢で荒れていた気持ちを落ち着かせてくれた。
「はぁ……」
バルコニーにあるテラス席に座って、空を見上げる。満天の星空に、煌々と大地を照らす月。眠る前は気付かなかったけれど、今日は満月だったみたい。
その月は空の高いところにある。夜明けまではまだ時間がありそうね。
「それにしても、あの夢はなんだったのかしらね」
声に出して一人呟く。誰もいないのだから、当然誰からの返事もない。
それでも声に出してしまいたかった。あれが夢なのだと、そう思いたかったから。
「そもそも『メイ様』ってなによ。私の名前はアリシア。アリシア・フロイラインが私の名前なのに……」
最近よく見る夢。見知らぬ言語を使い、私を知らない名前で呼ぶ男に誘拐される夢。
門に連れ出されそうになるところで目を覚ますのもいつも通りだ。
そのまま眠っても、また同じ夢を見る。ただの夢だと思いこもうとしても、こうも繰り返されては、夢に何かあるのでは? と疑心暗鬼になりそう。
「……でも、あれはただの夢じゃないのよね」
深く息を吐く。自分でも分かってる。あれはただの夢じゃない。
あれは私が五歳の時に、実際に起こった誘拐事件だから。
あの夢で誘拐される前から、私の誘拐未遂事件は度々起きていた。
私を見ておかしくなっていく人たち。そしてその人たちは揃って、あの夢のように私を何処かに連れて行こうとする。
新しく入った侍女が、私の家庭教師として入った人が、母のお茶会に来た客が、私を見た途端いきなり連れ去ろうとする。
あの男のように意味の分からない言葉を言いながら、私を拐おうとする。
けれどもそれは、屋敷の警備員が未然に防いでくれていた。
なのにあの時だけはあの男に警備を振り切られ、私は危うく王都の外に連れ出されるところだった。
私が今も家にいられるのは、あの時に私を助けてくれた人がいたから。その人がいなければ、私は今頃どこかに連れ去られていただろう。
だけど。
「今の生活を思えば、助けられたのは本当に良かったのかしらね」
また溜息が漏れる。
あの日を最後に、私は屋敷から出ることを禁じられた。
(思えば、あれが外に出た最後の記憶になるのよね)
これ以上の騒動は起こしてくれるなという両親の希望だと、専属侍女に聞かされた時には思い切り泣いた。
私が拐われたくて拐われたわけじゃないのに、どうしてそんなことを言うの!? と。
けれども両親の決定は覆らない。あの日以降私は、両親が決めた通りに屋敷に閉じ込められて、人と会うのを制限された生活を過ごしている。
私が移動を許されるのは屋敷の中と、自室から続くこのバルコニーだけ。そして私が自由に話ができるのも、私の専属侍女ただ一人。他の人は私を見ても、口も聞かなければ必要以上に目も合わせない。
そんな生活を、もう何年も送っている。
どれだけ願っても改善されない生活はもう諦めた。願って、それが叶わないと知って落胆するのは、もううんざりだもの。
それよりも気になるのは、あの日の私が探していた「誰か」のこと。
「あの日の私は、一体誰を待っていたのかしら」
私の呟きに答える者はいない。見上げた満天の星空は何も言わず、そこで輝いているだけ。
知る手段なんてない。屋敷から出ることを禁じられていて、専属侍女以外に話をすることを許されていない私では、その「誰か」を探す手段を持っていない。
「それでも知りたいと思うのよね」
このことに関しては、私の心は随分正直だ。
私は知りたい。あの日探していた「誰か」のことを。そして、あの日私が忘れてしまった何かのことを。
誘拐されたのをきっかけにして、私はそれ以前の記憶を失くしてしまった。
あの日に何を忘れてしまったのか、今はもう思い出せない。こうして微かに夢を通して思い出すだけ。
だから私は手を伸ばす。
あの日失った過去を、取り戻すために。




