十三話
「今、何と言ったのだ……?小僧……」
聞くだけで体の芯が凍り付いてしまうような声だった。
初めて知ったが、人という生き物は寒く無くても凍えることが出来るらしい。
怒り狂ったのであろう桧山の様子は、尋常なものではなかった。
だが、それでもなお。
ジンが最初に彼に対して感じた、殺人犯特有の雰囲気というものが復活することはなかった。
お化けと同じだ。
正体が分からないからこそ、それは怖く感じる。
仮に姿が見えてしまえば、それはもう「そういうもの」なのだ、と理解できる。
理解できるものに対して、怖さは感じない。
今の桧山は、まさにそれだった。
彼の、人間としての底が────その底の浅さが、滲み出てしまっている。
故に、ジンは口を開く。
彼に対して、せいぜいの嫌がらせをするために。
「……正直、あんたのことを鏖殺人から聞いた時には、世の中には恐ろしい奴がいるものだなって、思っていたよ」
いつの間にか、桧山の手には大ぶりの剣が握られている。見たことがない細工だが、アカーシャ国の物だろうか。
暗い小屋の中ですら銀の光を放つそれが、怖くないわけではなかった。
だがそれ以上に、ジンとしては言いたいことがあった。
「三十年かけて殺人をする奴なんて、聞いたことがなかったし、手口だって異常だった。正直に言えば、捜査中もずっと怖かったよ。俺は自分の手に負えないものに関わってしまっているんじゃないかっていう思いは、常に感じていた。…………だけど、鏖殺人に聞いたけど、あんた、先代ティタンを襲撃して逃げ帰ったことがあるんだって?」
目の前にいる老人が放つ殺気が、より一段と濃くなった。
どうやら、鏖殺人の推理は当たっていて────そして桧山の側からすれば、思い出したくもない話のようだ。
「それでティタン襲撃は諦めて、ティタン以外の人間を殺す連続殺人を始めたって聞いた。その時、ちょっとだけこう思ったよ……情けない男だな、って」
「貴様ぁ!」
剣を持っていない左手が動き、ジンの首元が締め上げられる。
一気に呼吸が苦しくなったが、ジンの口は止まらない。
「だってそうだろう?現実的な手段に切り替えた、と言えば聞こえはいいが、要するにそれは、先代ティタンにはどうやっても勝てないから、彼に関係する別の人間を八つ当たりで襲おう、と考えたということだからな。あんたとしても、正直後ろめたい部分があるんじゃないか?だからそんなに怒るんだ」
首の下でギリ、という音が鳴り、いよいよ空気が足りなくなる。
自然に、ジンの口からはヒューヒューとかすれ声が漏れた。
「……ティタンが怖いなら、復讐自体止めればいいものを、いまさら止めるに止められない。何もしなくては、自分がすっきりしない。今までの被害者は皆、あんたの自己満足に付き合わされてきたわけだ」
「……黙れ」
「挙句、潜伏場所に困っていきついた先が、転生者結社だ。向こうからすれば上物の客人だったろうよ。何しろ腕は立つわりに頭が鈍い。最高に利用しがいがある存在だ。あんたは相手を利用したつもりだっただろうが、人の翼の方としては、良いように使える駒でしかない」
「……黙れ」
「しかも最近は、その人の翼にすら見捨てられてきてるんじゃないか?もうあんたも年だしな。そもそも、王都で殺人をやろうって言うのに、支援役があのメイドだけなんて、明らかにおかしいだろう?むこうとしても、義理で構成員を派遣しただけで、もうあんたの事情なんてどうでもいいんじゃないか?」
「……黙れ」
「こんなこと、少し考えたら誰でも分かることだ。少しでも気が付かなかったのか?……ああ、悪かったな。そうか、それほどまでにあんたは頭が悪かっ」
「黙れと言っている!」
雷鳴と聞き間違えようかというほどの怒声だった。
桧山はジンの首を──首元を、ではない──鷲掴みにし、そのまま一気に自分の方に引き寄せる。
ジンの背後で、ブチブチブチ、と何かが千切れる音がした。大方、ジンを壁に貼り付けるために結んでいたロープか何かだろう。
何を、と思った時には、ジンの体は宙に浮かんでいた。
力任せに持ち上げたジンの体を、桧山が老人とは思えない腕力で放り投げたのだ。
一瞬、体が浮遊感に包まれ、数秒後に痛覚へと代わる。
口から苦悶の声が洩れたが、それは小屋の反対側の壁にたたきつけられた痛みによるものか。はたまた、数分ぶりに呼吸が出来たからか。
「貴様に、貴様に何が分かる……!」
ドスン、と重い音が響いた。気が付けば、桧山の足がジンの腹部に乗っている。
踏みつぶしてきたらしい、と認識が追い付くまで、数秒かかった。
そこからの数分間は、痛覚さえ発生しなかった。訳も分からぬまま、桧山に蹴られ続ける。
そして同時に、桧山は聞いてもいないことをベラベラと喋ってきた。
「御当主様は……御当主様は、御自分の調子が悪くなった時点で、俺には一時的に暇を出した!どんな病に自分がかかっているか分からない。剣豪と呼ばれた俺に、万一にも影響を与えてはいけない、と!」
それから、桧山は興奮した様子でまくし立てた。
同様の理由で使用人を休ませたため、当時の天司家には側仕えの人間と当主一族しかいなかったこと。
その者たちの判断で、異世界の医療にも詳しいという先代ティタンが呼ばれたこと。
そして────。
「便りがないことを不安に思い、久しぶりに屋敷を訪れてみれば、全員死んでいた!それも、先代ティタンが訪れてからしばらくたってから、バタバタと!だからこそ、復讐を誓ったのだ!」
「……要す、る、に」
「黙れ!しゃべるな!」
蹴られ続ける中では、うまく声にはならなかった。
代わりに心の中で反論する。
──要するに、実際に先代ティタンが一族を殺す様子を目撃したわけでもなく、証拠があったわけでもなく、ただその時期に先代ティタンが屋敷にいた、という一点で彼に復讐をしようとしたのか。
恐ろしい話だ。論理的な整合性が全くない。
最初から、この男がしたかったことは、憂さ晴らしと八つ当たり。ただそれだけ。
しかも当の先代ティタンには全く叶わずに敗走するのだから、完全に出来の悪い喜劇である。
尤も、その喜劇に巻き込まれ、四人もの職員の命が奪われ、今まさに、ジンが五人目になろうとしているのだが。
うめき声すら上げられなくなっていくジンとは対照的に、雄弁な桧山はそれからも話を続けた。
そして、その勢いで繰り出された言葉の一つは、偶然にもジンの心を撃ち抜いた。
「あの時、俺が屋敷にいれば、御当主様たちが死ぬことは、きっとなかった!貴様には、貴様には分からんだろう?俺の気持ちが。ただ、あの時の償いをしたいという、俺の純粋な思いが!」
──償い……。
先程も聞いた言葉だ。だが、ここへきて──まさに死にそうになって初めて、ジンはそれに別の意味を感じた。
桧山の言う「償い」に共感したわけではない。
ジンが感じたのは、彼のことではなく、ジン自身のこと。
──ああ、そうか。俺がここへ来たのは……殺人犯である酒井の手を借りてまで、この事件について捜査してきたのは……。「償い」のためだったのか?
かつてジンが犯してしまった過ち。
尾行中に、連続殺人犯──酒井を見逃してしまうというミス。
あの件でジンは左遷され、そして酒井の手による殺人の被害者が、一人増えた。
当然ジンは恨まれ、墓参りにすら行けていない。
──ずっと、償いたかった。遺族に謝ることも、会わせてもらうこともできないなら、せめて、同じような事件を解決することで……。だが、左遷先では事件にかかわることもできずにいて……。
結局、ジャクと共にやけ酒を飲むことしかできなかった。
そんな中偶然遭遇した、この事件。
明らかに異常な人間によって引き起こされた殺人事件。
転生局がらみ、という点も、前回と似ていた。
──だから、この件は解決したかった……。手柄を意識しなかったわけじゃない。だけど、一番は似たような被害を増やさないために……。それで償いの代わりとするために……。
ここへきてようやく、ジンはこれまで自分を突き動かしてきた、自分に囮役まで引き受けさせた「情熱」の正体を理解する。
同時にその情熱は、眼前の老人が持つ「復讐心」と同質のものであることも。
──俺とこいつは、ある意味似てるってことか……。ぞっとしない話だな。何か過ちを犯して、償いたくても償えなくて、結果過激な行動に出る……。傍から見れば、こんなに醜悪に見えるのか。
朦朧とする意識の中で、ジンは思考し続ける。
悲鳴の一つも上げず、押し黙ったまま。
突然、嵐のように降り注いできた蹴りが止む。
ジンの様子は、桧山の目にも異常に映ったのだろうか。
「……下らんやつめ。もう十七時だ」
否。
「見立て」の時刻が来たのだ。
「俺を侮辱した貴様は、本来もっと苦しめて殺したいところだが……これまでのように首を狩り、もう一度繋がねば『一』の見立てにならん。だから、一太刀で死ね」
桧山が、その手に持つ剣を振り上げたことが分かった。
それを見たジンが。
ふとあることを思いつき。
それを口にしたのは、偶然だったのか。
必然だったのか。
「……俺とあんたは、似ているのかもしれない」
「だけど一つ、違う点がある。あんたは、人の翼にいいように使われてきた」
「あんた自身も、思いっきり人の翼に考えに取り込まれてきた。そうじゃなきゃ、目的を聞かれて、『異世界転生者の救済』だなんて答えない」
「そして正直、俺も今回の件では、囮としていいように使われたんだろう」
「だけど、俺を利用した存在は……人の翼よりも、ずっと恐ろしいぞ?」
「俺を利用したのは────────鏖殺人なんだから」
それを言い終わる前に。
小屋の壁がぶち抜かれる音が響いた。
気絶寸前のジンには、周囲の様子はよく分からない。
桧山が驚愕のあまり剣を取りこぼしたことだけが、ぼんやりと分かった。
「危険な任務ご苦労だった、須郷ジン一等職員」
それと。
はっきりとした、鏖殺人の声も。
──やっぱり、これも織り込み済みか……。
もっと早く来てくれよ、とは思う。
だけどまあ、良いだろう。
相手は鏖殺人なのだから。……とても敵いそうにない。
最後にそう考えて、ジンは安心して失神した。