内務省所属平和庁直属特務機関「転生局」

七章 鏖殺人と忠誠の士

十一話

　鏖殺人がその路地に赴いた時には、既にジンの姿はなかった。

　ただ、鏖殺人の足音だけが狭い路地の中の響き渡る。

「連絡が取れなくなって一時間。彼の作戦は成功した、とみて大丈夫だろう」

　痕跡一つ残っていない地面を見つめながら、鏖殺人はぽつりと呟く。

　それと同時に、彼は右手をすっ、と上げた。

　その瞬間、誰もいなかったはずの路地にゆらり、と黒い人影が出現する。

　細身の女性だ。彼女は足音も立てずに路地を歩き、やがて鏖殺人の背後にまで近づいた。

　普通の人間なら、恐怖で悲鳴の一つでもあげていただろう。

　だが、鏖殺人は様子を変えない。

　当然と言えば当然だ。彼女をここに配置させたのは、鏖殺人自身なのだから。

「……状況は？」

「手筈通りです。一時間前、須郷ジンは何者かに連れ去られました。現在、妹が尾行しています」

「尾行は成功しているか？」

「はい。問題がないなら五分おきにスズメを飛ばすように指示していますが、今もなおそれは途切れていません」

「ならば、良い。……しかし」

　鏖殺人はふと振り返り、今までここで彼を待っていた部下の姿を見つめる。

　見つめられた当人は、彼の珍しい行動に驚き、瞬きを一つ、返した。

「なんでしょう？」

「いや、君を二等職員に留め置いたことが、変なところで役に立ったな、と思ってな」

　眼前の彼女を転生局で雇い入れたのは五年前。

　当初はさして期待もしていなかったのだが、なかなかどうして、渉外──表裏二つの意味があるが──担当として役に立ってくれていた。

　今では、間違いなく転生局の四人目のメンバーだと断言できる。

　特に今回のような、一等職員が動けないようなときには、彼女──正確には彼女たち姉妹の存在は必須だ。

「……お褒めにあずかり光栄です。ですが、急がれた方がよろしいかと」

「ああ。桧山ゲンゾウが予測通りの動きをするのならば、そろそろあの警士を殺そうとする頃だろう」

「はい。さすがに、勝手に雇い入れ、囮として使った警士をむざむざと殺させてしまっては、中央警士局との関係悪化は避けられないかと」

「分かっているさ。……スズメを一羽、貸してくれ」

　そう言いながら、鏖殺人はまるで調子を確かめるかのように、愛刀をすらりと抜き放った。

　ジンが久しぶりに効いた音は、ブン、という風切り音だった。

　それも、一度や二度ではない。規則正しく、その音は鼓膜を震わせる。

　ブン！

　ブン！

　ブン！

　ブン！

　リズムが一切狂わない。

　あまりに正確過ぎて、聞いていて不安になってくるほどだ。

　ぼんやりとした意識の中で、ジンはその音は何なのだろう、と考える。

　風切り音、と言うぐらいなのだから、「何か」が空気中を移動しているはずなのだが。

　その「何か」がよく分からない。

　高速で移動し。

　あまりくぐもった様子もなく。

　しかし、鋭い風切り音を作る物。

　そう、例えば。

　剣を持って全力で素振りをすれば。

　その切っ先は、きっとこんな音を────。

「――――――！」

　そこまで考えた途端、ジンの脳細胞の全てが一瞬にして覚醒した。

　眠気など幻のように消滅し、目の焦点もカチリと合う。

「ここは……」

　突如清明になったジンの視界に、古びた小屋の情景が飛び込んだ。。

　狭い小屋だ。木の板を張り合わせただけで組み上げたような、粗雑な構造をしている。壁もボロボロで、いくつも穴が開いていた。

　そこまで観察した時点で、ジンは自分の両手両足が縛られていることに気が付く。

　さらに、自分の体が、丁度体育座りのような恰好のまま、壁に背中を預けていることにも。

　状況の異常さに、筋肉が強張った。だが、それほど動かしても、ジンの体がその場から動くことはなかった。

　どうやっているのかは分からないが、ジンの体と、後ろに回された両腕は、壁に貼り付けてられているらしい。

　ブン！

　また、風切り音が聞こえた。

　さらに、先ほどまでは気が付かなかったが、風切り音がしてから数秒後に、チン、という軽い金属音も響く。

　意識がはっきりしたせいか、その音の正体はすぐにわかった。

　──何度も何度も、繰り返し抜刀している。その勢いで剣先から風切り音がしているんだ。金属音の方は、多分納刀した時に聞こえる音だろう。

　ブン！……チン。

　もう一度、聞こえた。

　今度は、意識を集中させていたため、音が発生している位置もおおよそ分かる。

　ジンが固定されている壁の真裏……小屋の外で、この音は発生していた。

　──誰かが、小屋の外で抜刀術の練習をしている……。

　さすがにここまでくれば、状況は把握できた。

　──今これをやっているのは、桧山ゲンゾウだ。どうやったかは分からないが、俺を気絶させ、ここまで運んだ。そして、今俺を「見立て」通りに殺す練習をしている……。

　背中に突然氷柱でも突き刺さったかのように、ジンの背中に寒気が走った。

　いくら警士として何人もの犯罪者を相手してきたとはいえ、ジンには連続殺人犯に捕まった経験などない。

　それが自分を殺すための者ならば、なおさらだ。

　見たところ、鏖殺人はいない。

　ジンを見失ってしまったのか、それともそもそも護衛などしてくれなかったのか。

　──何にせよ、早く逃げないと……！

　そう感じて、今一度全身に力を籠めようとする。

　しかし。

　それをする間もなく、ジンは脱出への準備を中止せざるを得なくなった。

　理由は明白。

　背後から聞こえてきた風切り音が消失し、代わりに足音が聞こえてきたからである。

　どうすべきか、対策を練ろうとした瞬間には、彼は既に小屋の中に入ってきていた。

「……起きたのか、小僧」

　予想していたよりも、ずいぶんと渋い声。

　連続殺人犯・桧山ゲンゾウは、その声だけで、ジンを圧した。

　殺人犯、と呼ばれる人間たちは、他の人間には持ちえない、ある種独特の雰囲気を擁していることがある。

　狂気。

　殺意。

　敵意。

　形は様々だが、常人が想像すらできない経験をした者だけが、それを持つ。

　近づくだけで他者を圧倒し、委縮させてしまうような雰囲気を。

　極端な例を言えば、先日面会した酒井はその代表例だろう。彼の様子を見て圧倒されない人物など存在しまい。

　また、殺している対象こそ異世界転生者だが、鏖殺人もその手の風格を有している。

　ジンから見た、桧山ゲンゾウと言う人物もまた、その例からは逃れていなかった。

　鏖殺人の話が正しければ年齢は六十八歳のはずだが、その風貌は老人のそれではない。

　粗く削られた岩塊のような顔は、彼が今までくぐってきた修羅場を彷彿とさせ、見たものを威圧する。

　背も高い。百八十弱はあるだろう。腰は間違っても曲がってなどおらず、地面に垂直に、綺麗な形で背筋を伸ばしている。

　古い軍服──彼が忠義を誓っていた、天司家における護衛用の服だろうか──を身に着けているため分かりにくいが、手足の太さもまた、その年齢からはかけ離れている。

　無論、脂肪ではなく、鍛え抜かれた筋肉によって、である。力こぶなど、ジンよりも大きいだろう。

　断言していいが、彼が一度、腕を振るえば、それだけでジンは死ぬだろう。

　剣など使わずとも、そのまま殴り殺すことだって、彼にはできるはずだ。

　そのせい、とまでは言わないが。

　彼の姿を見た瞬間、ジンはあらゆる動きを止めて────諦めてしまった。

　仮に、この拘束から逃れることが出来たとしても。

　彼が全力で追ってくれば、きっと自分は逃げ切れない、と理解してしまったのだ。

　そんなジンを尻目に、不意に桧山ゲンゾウは口を開く。

「……あと、十五分だ」

「……は？」

　よく分からない言葉に、意図せずジンは返事を返した。

　反応を期待してのことではなかったが、多少は気に留めてもらえたのか、眼前の桧山はジンに目をやった。

　さらに、何を思ったのかは知らないが、解説めいたことを言ってくる。

「御当主様の死亡時刻は、十七時だった。今は十六時四十五分。あと十五分で、お前を殺す。それまで、俺はここにいる」

　──死亡時刻まで含めて「見立て」をしていたのか……？

　どうやら、今まで殺された被害者たちも、彼が復讐を誓うほどにまで慕っていた、天司家の人間の死亡時刻に合わせて殺していたらしい。

　ジンは、彼の計画で言えば最後に殺す人間だから、最も敬うべき当主のそれと時刻を合わせているのだろう。

　そこまで考えた時点で、ふと、ジンは彼に対して、ある質問をしたくなった。

　大した質問ではない。

　自分や、鏖殺人の推理があっているのか、どうかを。

　ただそれだけの問いかけである。

　それは、本来ならしなくてもいい質問。

　仮に返答があったとしても危険を呼び、返答がなければ相手を不機嫌にさせ、場合によってはジンの死に方がより悲惨になる。

　そんなことをするよりも、何とかしてこの場を脱出する策を練る方が、何倍も生産的だ。

　だが、この状況を見る限り、ジンの余命が十五分であることはまず間違いない。

　何しろ、剣豪とうたわれた殺人犯本人が、ジンの目の前で殺害時刻まで見張ってきているのだ。どう抜け出せと言うのか。

　どんな策を練ったとしても、ジンは生き残れないだろう。

　そう考えた瞬間から、ジンの胸の奥が、スッ、と冷たくなった。

　同時に、いわゆる気力や、合理的な判断力と言うものが失せる。

　代わりに、自分をここまで駆り立ててきた、事件への異様な好奇心や、興味ばかりが浮き彫りになった。

　だからだろう。

　桧山への質問を、ジンは実行した。

「……なあ」

「……」

　桧山は、何も答えない。

　だが、それでも問いかけた。

「あんた、天司家の人間の復讐のために、転生局の人間を襲っているってことで、合ってるか？」

　桧山の肩が、少し震える。

　それをジンが視認した途端。

「復讐などではない！これこそ忠義の証……償いなのだ！」

　小屋を吹き飛ばしそうな声量で、桧山は怒鳴った。

　汚い床に散らばる砂がビリビリと震え、小屋の壁もガタガタと共振する。

　無論、至近距離でそれを聞いてしまったジンも無傷ではなく、大きく顔をしかめた。

　だが、そんな様子は目に入らないのか、桧山はとうとうと話し続ける。

「そもそもにして、俺の忠義を犯罪などとぬかすから、被害が広がるのだ。俺は今、間違いなく正しい行動をしている」

「……はあ」

「第一、これは俺の個人的感情に基づくものではない。社会正義の実現なのだ」

「……へえ」

　相手を出来るだけ刺激しないよう、ジンは適当な返事を返す。

　だが、最後の言葉は気になった。

「……社会正義とは、どんな？」

　間髪入れずに、桧山は返答した。

　ジンからすれば意外でしかない言葉を添えて。

「決まっている。異世界転生者の救済だ」

　──異世界転生者？何で彼らが、そこで出てくる？

　思ってもいなかった単語に、思わずジンは眉を寄せる。

　同時に。

　小屋の外から、桧山とは違う、別の足音が聞こえてきた。