十話(六章 完)
「あ、ああ、ああああ……」
すぐに逃げる必要がある、と理解していながらも、大樹の口から洩れたのは恐怖の悲鳴だった。
あらゆる魔法が何故か通用しない、鏖殺人という化け物に遭遇しただけでも恐怖であるのに、この五日間共に過ごした人間を、眼前でいともたやすく殺害されたのだ。
寒くの無いのに、皮膚が寒気を感知し、眠くもないのに意識が薄らごうとする。
隣にいる一花が、驚いたように背中をさすってきたが、意識にも上らなかった。
だからだろうか。
いつの間にか大樹は、この五日間感じ続けてきたことを、ふと口から漏らしていた。
「何で、こんな……。……っ、俺たちの、何が悪いんだよ!」
瑠璃の死体から刀を抜いていた鏖殺人が、大樹の方を振り向いたことが分かった。
だが、恐怖を怒りに変換した大樹の口は、止まろうとしない。
「と、突然、こんな変な世界に連れてこられて……しかも殺されるとか何とかいわれて森の中を歩きまわされて……そ、その挙句、あんたに殺される!お、俺たちが、あんたに何をしたって言うんだよ!み、皆、何も悪いことなんか……」
「そのくだりは、既にそこで死んでいる大男との戦いの中で説明したはずだぞ。聞いていなかったのか?」
いっそ憎々しげに感じられるほど、平坦な口調で鏖殺人は反応を返す。
だが、大樹としては、何度言っても言い切れるものではなかった。
一花の表情も目に見えず、言葉を連ねる。
「だ、だけど、皆、命乞いすらできなくて……まともな言葉も言えなくて、そのまま、殺されて……!あんなの、人間の死に方じゃない!し、しかも、ここの委員長だって脅して……」
「当たり前だ。これは人の死に方じゃない……異世界転生者の死に方だからな」
話に相槌を打ちながら、刀の血曇りを拭いていた鏖殺人が、そこへきてようやく一歩踏み出す。
そのまま、二歩、三歩と。
大樹たちの方向へ向かってくる。
だが、それでも、大樹は口を閉じなかった。
これは、アカーシャ国が眼前に迫っているとはいえ、もうここまでくれば、どう逃げても鏖殺人に追いつかれてしまう、と本能的に察知していたからかもしれない。
あるいは、未だに手を握ることしかできていない一花の様子が、余りにも痛ましかったからかもしれない。
とにかくこの時点で、大樹は死ぬ前に、せめて鏖殺人の精神を傷つけて死にたい、と思っていた。
「だけど、皆、必死に生きてきたのに……あんなにあっさり、遊んでるみたいに……理不尽に!」
「……何だ?もっと演劇の登場人物のように、劇的に死にたかったのか?」
鏖殺人の口調が、笑いをかみ殺すようなものへと変わる。
その態度は、大樹を激昂させるには十分だった。
しかし。
大樹がそうじゃない、と口にする前に、鏖殺人の雰囲気が、がらり、と変わった。
「いいか、異世界転生者の少年。今から死ぬ君に教えたところで無意味だが、一つ言って置いてやろう」
わざわざ鏖殺人は、その場に立ち止まり、ゆっくりと、言い含めるように語りかける。
「君は、クラスメイト達があっさりと、自分が何で死ぬのかもわからずに死んでいってしまったことを、理不尽だと捉えているようだが……元々、命って言うのは理不尽なものだ。人が生きることにも、死ぬことにも、大した理由は存在しない。ただ運だとか、環境だとかが良かったから、たまたま生きているだけ……」
大樹の困惑を無視して、鏖殺人は喉を震わせる。
「だから、死ぬって言うのは基本的に全て理不尽なんだ。生きていること自体に理由がないんだからな。納得できる死なんて、ほとんど存在しない。どれほど長く生きようが、どれだけ善人だろうが、死は一瞬。そしてその一瞬で、人から全てを奪い去っていく。……言ってしまえば、理不尽じゃない死なんて、無いんだろうな」
その時、鏖殺人がため息をついたように見えて、大樹は目を見張った。
まるで──寂寥感を感じているかのように。
だが、そんな感覚を抱いたのも一瞬のこと。
すぐに鏖殺人はその表情をかき消して、宣戦布告をするように、言葉を放つ。
「目の前の光景を信じられないなら、よく見ておけ……『死』と言うのは、こういうことだ。どれほど理不尽に見えようが、これが『死』なんだ」
「そして今、君たちも『死』を体験する」
そこまで言うと、彼はやおら刀を振り上げて────。
鏖殺人が刀を振り上げてから、それを振り下ろすまでに、いくつかの出来事が同時に起こった。
まず、大樹は死の恐怖に囚われ、目を強く閉じ、一花と繋いだ手の力を緩めた。
次に、鏖殺人は、大樹と一花の内、大樹の方を狙った。
そして最後に、大樹の隣にいた一花は。
鏖殺人による虐殺以降、心を壊していたはずの一花は。
全体重をかけて、大樹の背中を押した。
鏖殺人が、斬り損ねないように。
これにより、大樹もまた。
自分がどうやって死んだのか理解できないまま、死んだ。
「わ、私、うまくやれました、よね?」
「……ああ、そうだな」
一花の、恐る恐る、と言った言葉に対して、鏖殺人は何もなかったかのように首肯する。
それを見てようやく、一花は心の底から安堵した。
同時に、脳内に鏖殺人に捕まった際、クラスメイト達の位置を教えると同時に約束した、もう一つのことを思い出す。
「いいか?俺はこれから君が言う、そのキャンプ場所を襲って、異世界転生者を皆殺しにする。だが、殺す側が一人しかいない以上、取り逃がしは出るかもしれない」
「クラスメイト達まで売った、君の協力的な姿勢を見込んで言うんだが……君には内通者になってほしい。仮に俺が異世界転生者を取り逃がした際には、その取り逃がしと合流して、俺の手助けをするんだ」
「まず、君が疑われないように、俺は異世界転生者の内、誰かが見ている前で君を少しだけ傷つける。安心しろ、手加減はするさ。そこで君は大げさに倒れるか、気絶する演技でもしてほしい」
「それに、そうだな。気絶した君を連れて行けるように、その目撃者くらいは生かしておくか。君と、そのもう一人は、異世界転生者の一部が逃げ出したら、彼らと合流し、その上でできるだけ痕跡を残すんだ。細かい部分は君に任せるが、少しで痕跡を残してくれたら、俺は必ず追いつける自信がある」
「仮に取り逃がしが出なければそれでよし。取り逃がしが出ても、君に追いついた俺がその連中を殺すことが出来れば、それでよし……君以外の異世界転生者を全て殺した時点で、君だけはアカーシャ国に逃がしてあげるよ」
いつばれるか分からない、極めて危険な計画。
成功するかどうかは賭けに近い。
だが、一花はその話に乗り────そして賭けに勝った。
鏖殺人に裏切られたような芝居をして、大樹の同情を引き。
心が壊れたふりをして暴れまわり、痕跡を残し。
そして今、最後の生き残りの始末を手伝った。
罪悪感が、無いわけではない。
だが、今の一花には、ようやっと死の恐怖から逃れられる、と言う喜びと、ある種の達成感の方が強く感じられた。
「じゃあ、私はもう……」
「ああ、好きなようにするといい。アカーシャ国はすぐそこだ」
まだ生温かい、大樹の血が付着した刀身で、鏖殺人が国境線を指す。
だが、一花はもはやそんな血生臭い光景を目にいれていなかった。
この大規模異世界転移における最後の生き残り、水野一花は。
見ている方が空恐ろしくなってくるほどの笑顔で、その場から国境線に向けて駆けだした。
そして。
「そう、好きにするといい。俺も好きにするんだから」
鏖殺人が、自分に背を向けた一花の首元に刀を差しいれるのには、二秒もかからなかった。
死から解放されたという、満面の笑みを浮かべたまま、一花は血を吹き出してその場で倒れる。
鏖殺人は、その死にざまに、何の言葉もかけなかった。