四話
────朝起きたら、元の世界に戻っていますように。
叶わないと分かっていても、寝る前に一応念じておいた願い事。
分かっていたことだけれど、今日もそれは実現しなかった。
「ん……背中、痛い……」
寝ぼけ眼でそうぼやきつつ、水野一花はテントの中で体を起こす。
体の至るところが酷く凝っていた。
慣れないテント暮らしでは、快適に寝るなんてことは難しいのだ。
痛みと狭っ苦しい感覚に耐えながら、一花はのそのそとテントから這い出る。
未だにテントで寝ているクラスメイトたちを起こさないよう、音を殺して。
──シャワー、浴びたいな……。
ぼさぼさの髪を手で整えながら、そんなことを考える。
水浴び中に鏖殺人に見つかるのが怖いから、入浴は止めよう。
新たちがそう指示したために、生徒たちはこの世界に来てから一度も入浴していない。
代案として、寝る前に濡れタオルで体を拭くぐらいのことはしている。
しかし一日中歩き回り、汗まみれになった体の不快感は、その程度で消えはしなかった。
女子として、この問題はかなり気になる。
──もしもアカーシャ国で保護されたら、真っ先に体を洗おう……。
切ない願いを抱きつつ、続けて一花はふと、昨夜見た光景を思い出す。
クラスメイトと少し話してから、テントに戻ろうとした時に目撃した光景。
大樹と瑠璃が、親しげに話している姿。
その光景を思い出した瞬間、一花の思考は強い不快感に支配される。
入浴出来ないこととも違う、じっとりした不快感。
理由は分からないが、一花の中である種の危機意識が浮かんでならない。
──何か、気分変えたいな……。
考えても意味が無いことばかり考えていることを自覚して、一花は無理矢理に思考の流れを変えようとする。
しかし、どこまでも続くこの深い森の中では、気分転換のネタなどそうそう無いのだが。
仕方なくテントに戻ろうとしたところで……不意に、こんなアイデアを思いつく。
──体は洗えなくても、顔を綺麗にするくらいは……大丈夫なんじゃないかな。
昨夜、水汲みをした場所のことを思いだした。
あの沢の水は、少なくとも料理に使えるくらいには綺麗だった。
水を飲んだクラスメイトたちも、腹を下した様子は見せていない。
ならば、あの水で顔を洗っても危険はないだろう。
問題は、「指示がない限り、勝手に動かないでほしい」と言ってきた新と瑠璃だが────。
──見えてない、よね。
横目で彼らの様子を伺いつつ、一花は密かに作戦を練る。
クラスメイトたちが眠るテントの群れは、丁度扇のような形に広がっており、彼ら二人は扇の要の位置で見張りをしている。
扇の端にある一花のテントは、彼らからすると見えにくい位置にあった。
──少しくらいなら、一人で行っても……最悪、謝ればいい話だし……。
直接頼むと、反対されそうな気がする。
後で叱られても、洗ってしまえばこっちのものだ。
そんなことだけを思って、彼女は一人で沢に向かった。
魔法も使えず、体術に秀でているわけでもない。
普通の女子中学生が、アレルに置いて一人で行動した。
この行動の意味を、彼女はすぐに思い知ることになる。
「あー、気持ちいい……」
首尾よく沢に辿り着き、コンコンと湧き出る湧き水で顔を洗う。
そうすると、ようやく一花は気分転換が出来た気がした。
胸元や足にじめじめとした不快感はあったが、顔が綺麗になるだけでも、感覚的にはだいぶ違う。
──また大樹君と一緒に歩くんだから……多少は、ね?隣に泥だらけの顔があるのも、アレな気分だろうし。
そんなことを考えて、沢の水で作られた水たまりを覗き込んだ。
自分の顔をチェックするためである。
穏やかな水面は、綺麗な鏡のようになって彼女の顔を映しだしてくれた。
──そういえば鏡を見るなんて、この世界に来てからやってなかったな……。
それが出来たというだけで、しみじみと嬉しくなる。
ほんの少しだけ、自分の日常が帰って来たような気分になるから。
朝起きたら、登校前に顔をチェックするのが日課だったのだから。
────異変が生じたのは、そんなことを考えた瞬間だった。
いきなり、ふっと水面に反射される自分の顔が暗くなる。
水面に差し込む光の量が、急激に減少したのだ。
まるで、自分の背後に誰かがやってきて、日差しを遮ったかのように。
「推測を信じて、沢で張っていたことが吉と出たか……お前、異世界転生者だな?」
急に聞こえてきた低い声に、一花は心臓を跳ねさせる。
慌てて振り向こうとした時には、既に右の手首を掴まれていた。
声も出せないままに、背後から右腕を捻り上げられる。
相手の動きには一切の無駄がなく、暴力に慣れていることを窺わせた。
一花が苦悶の声をあげる前に、もう一方の腕も背中に持っていかれる。
気が付いた時には、一花は両腕を後ろに回されて拘束されてしまっていた。
更にダメ押しで、相手は一花の背中にのしかかって体重をかけてくる。
水面を覗き込むために姿勢を低くしていた一花は、うつぶせに這いつくばるような格好となった。
あっという間に、一花は身じろぎ一つできなくなる。
背後の存在に気づいてから、一花が拘束されるまでの時間は、せいぜい五秒。
一花の主観としては、殆ど一瞬だった。
それだけで……もう、一花の運命は決められていた。
「動くな」
未だに事態を把握していない一花を叱りつけるように、背後の存在が声を発する。
「俺は、ティタンという者だ。もう聞いているか?」
問いかけに対して、一花は混乱しながらも不思議そうな顔をしたのだろう。
よく分からない、と言いたくて。
そのせいか、ティタンなる存在はすぐに言い直した。
「俺が鏖殺人だ……そう言った方が分かりやすいか?」
その瞬間、一花は水面に自分以外の顔が映っていることに気が付く。
そこにあるのは、目を見開いた自分の顔と……仮面を身に着けた男の姿。
両目を隠す仮面。
鼻から下を覆うマスク。
首から下は見えないが、襟の様子からすると、軍服のようなものを身に着けているようだ。
特徴の全てが一致していた。
新や瑠璃が何度も口にしていた、鏖殺人の特徴そのものだ。
──鏖殺人ってさ、本当にいるのかな?
昨日大樹に問いかけた言葉が、一花の脳内で空しく響いた。
異世界転生者を殺すために存在するという、鏖殺人。
ずっと一花は、そんな存在が本当に居るのかと疑っていた。
だが、今なら確信出来る。
鏖殺人は実在する。
今、自分の後ろに居るのだから、流石に信じざるを得ない。
──だったら、私は……私は、もう……殺される?
ゆっくりと、されど確実に。
一花の思考は絶望で彩られる。
一花は最早、拘束を振り払おうともしなかった。
鏖殺人としては好都合だったのか、彼は落ち着いた様子でもう一度口を開く。
「どうせ聞いていると思うが、俺の仕事は異世界転生者を一人残らず殺すことだ」
一花の口から、「ヒイッ」と悲鳴が零れかける。
しかし鏖殺人はそれを予期していたらしく、素早く一花の口を右手で覆った。
左手一本で一花を拘束したまま、声が出ないようにされる。
「しかし、実は今回は少々事情が異なるんだ。俺はもう、お前たちが大人数でこの世界に来たことを知っている。その全てを殺さない限り、俺の仕事は終わらない。そしてお前たちを一人一人殺していくのは不可能ではないが、俺としては大きな手間だ……だから、君と取引をしたい」
少しだけ、鏖殺人の口調が丁寧になった。
一花への呼びかけも、「お前」から「君」になる。
そして次に告げられた言葉は、一花の思考に一筋の光明を与えるのだった。
「どうせ、森の中で固まって行動をしているんだろう?だったら……君以外の異世界転生者が、集まって寝ている場所を教えてほしい。教えてくれたら、君だけは見逃そう」
────丁度その頃、大樹はテントから這い出てきたところだった。
時刻は、地球で言えば朝の六時と言ったところか。
冷え込んだ朝の空気が、筋肉痛にあえぐ大樹の四肢を通り抜けていく。
大きくあくびをして、涙目で周囲を観察。
すると何人かのクラスメイトが、何ともなしにストレッチをしていた。
よくよく見てみれば、新や瑠璃も参加しているようである。
──筋肉痛対策のストレッチかな?一応、参加しておくか……。
そう考えて足を踏み出そうとした時……大樹の背後で、ガサリと物音がした。
何となく大樹はその音につられ、振り返ってみる。
誰か新しく起きたのかな、と思ったのだ。
──何だ、委員長か。
背後に立っていた存在の正体に気が付き、大樹は軽く手を振る。
挨拶をしようと思ったのだ。
今日もまた、一花と共に歩くのだから。
「委員長。おはよ、う……?」
しかし彼の挨拶は、途中で止まる。
というのも目の前に現れた彼女は、おかしな状態になっていたのだ。
ふらついた足。
焦点の合わない瞳。
髪は異様にボサボサで、口は半開きである。
彼女の開いた口からは、よだれがツーっと垂れていく。
それを見た大樹は「何かあったらしい」と感じて、血相を変えた。
「い、委員長!?一体、何が……」
「大樹君、私ね」
大樹の言葉にかぶせるようにして、一花は口を開く。
「私ね、どうしても死にたくなくてね。すごく、すごく怖くてね、それでね」
「委員長……?」
「ものすごく怖くてね、だけど、怖くなくするって、あの人が言ってね、だからね、私ね、私ね、私ね」
「委員長、だから、何が……」
「私、クラスの皆のことも、よく知らなくてね。新さんとか、瑠璃さんとか、もっと知らなくて、だから、信頼なんてできなくて……」
「委員長!ちょっと、何を言っているのか、さっぱり……」
「私ね、何度も言うけどね、すごく怖くてね……仕方ない、よね?」
「ちょっと、少し黙っ……」
「だから…………ごめんね、大樹君」
「え?」
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
謝りながら、一花はするりと体を脇に滑らした。
背後にいる何かに道を譲るように。
だから大樹は、一花の背後に隠れていた彼の姿を────鏖殺人の立ち姿を、クラスメイトの中で一番最初に見ることになった。
「ここか、異世界転生者たちの巣穴は……」
鏖殺人が滑らかな動作で刀を抜く。
「協力感謝する。さて……面倒だが、皆殺しと行こうか」




