九話
「……と、まあ、酷く長くなりましたが、今のが、大雑把な転生者法の歴史です。そして同時に、私がこんなことを職業としている理由でもあります」
暗くなった会議場の雰囲気をまるで意に介さず、鏖殺人は言葉を繋いだ。
その様子からは、先ほどまでの真剣味が大きく薄れている。
そのまま彼は、ふと思いついたかのような軽い口ぶりで、エリカにもう一度問いかけた。
「では、エリカ姫。今一度答えを聞きたい。この世界のために、人々の心のありようを安定させるために……そちらで保護された異世界転生者たちを、引き渡していただきませんか?」
それを聞いて、トモカズは久しぶりに、現在の議題が、鏖殺人によるアカーシ国への異世界転生者の引き渡し要求であったことを思い出す。
彼の話について色々と考えこんでいたせいか、主題を忘れかけていた。
そしてそれは、エリカの方も同様だったらしい。
何かを思い出したかのような、ハッとした表情を一瞬見せ、それからようやく額にしわを寄せる。
彼女の様子を見て、観覧席ではざわざわと記者たちが雑談を始めた。
鏖殺人の演説の間は、口も開けない程の緊張感が漂っていたために、その息抜きも兼ねていたのだろう。
めいめい、アカーシャ国が──エリカがどのような対応をするかを予想し合う。
そしてその予想が最終的にどのような方向に向くのかは、トモカズにも分かった。
──ここは、要求の受諾しかないんだろうな……。
トモカズは、同情も込めて心中で呟く。
この時ばかりは、今感じた転生者法への違和感を抜きにして、そう思えた。
今見た限り、エリカは論戦に置いて、完全に鏖殺人に呑まれてしまっているように見える。
ここで鏖殺人の要求を蹴ったところで、なんやかんやと言いつつ、鏖殺人に丸め込まれるとしか思えない。
論破されるとまではいかなくても、言質の一つも取られてしまえば、そのままずるずると要求受諾に向かうかもしれない。
トモカズの目には、会議場の雰囲気からして、もはや鏖殺人有利に傾いているように見えた。
碌に論戦などしたこともなく、政治にそこまで詳しくないトモカズをして、そう思わせてしまうほどに──この場において、鏖殺人の存在感は圧倒的だった。
言っていることがどれだけ強引であろうと、彼に問いかけられてしまうと、つい頷きそうになる。
今の演説で明らかに委縮した空気も、それを明示していた。
エリカでは、やはり転生局のトップとしての力量が足りない。
尤も、つい最近顧問になった人間と、既に十年近い局長としての経験を積んだ人間を比べること自体に、土台無理があるのだが。
そう思っていたからこそ。
次に会議場に響いた声が、やや鋭い語調の質問だったことに、トモカズは内心驚愕した。
「……その前に、お聞きしたいことがあります。ティタン局長が、異世界転生者の殺害を『悪』と定義したことについての説明がまだのようですが、それについて教えていただけませんか?」
それが、エリカが放った質問だった。
その質問を境に、観覧席にいる記者たちが雑談をぴたりと辞める。
さらに、「そういえば最初はそんな話題だったな」と思い出すかのような沈黙に代わった。
「今のお話では、人の中にある差別意識や、悪意を特定の方向に向けるために、異世界転生者の殺害という行為が必要、となったはずでした。そう考えているのに、ティタン局長ご自身がそれを『悪』と断ずるのはなぜでしょうか?」
続いて行われたエリカによる説明により、参加者たちはようやく質問の骨格を理解する。
──確かに、転生者法も転生局もこの世界に必要だ、と考えているんだったら、わざわざ自分の行為を「悪」と呼ばなくてもいいはずだよな……?
トモカズもまた、心中で疑問を反芻させた。
鏖殺人の返答は、少し、遅れる。
「少し前に我が国の転生局に志願した人間が、こんなことを言っていました。……転生局は、『必要悪』なのだ、と」
その言葉は、先ほどまでとは打って変わって、やや弱々しいようにも感じられる、静かなものだった。
少し当惑した様子で、エリカやリュウが鏖殺人を見つめ返す。
だが、それも意に介さず、鏖殺人は言葉を続けた。
「その言い回しを、少し借りただ、け……」
そこまで口に出した瞬間だった。
ガタン、という、会議にそぐわない音が、トモカズの耳朶を打つ。
え、と思った時には、観覧席の人間が悲鳴を上げていた。
同時に、リュウとエリカが席を立って駆け寄る。
音を立てた相手──鏖殺人の元へ。
彼らの視線の先には。
予兆の一つもなく、突如としてその場に倒れ伏した。
鏖殺人の姿が、ある。
「…………ティタン局長!」
数分前とは別の意味で。
会議場は沸騰する。
「それでは、本当に、鏖殺に……じゃなくて、ティタン局長は、どこも悪くないと言っているんですね?」
「ああ。まあ、何か悪いと言われたら、こっちが困っていただろうが……」
六十過ぎの保健室長は、額に汗を浮かばせながら、そんな頼りないことを言った。
「確かですね?頼みますよ?これで会場内の衛生状態が悪かっただとか、飲み物に原因があるとか言われたら、俺の責任になるんですから……」
「本人がピンピンしているんだから、そうはならんだろう。ただ、何度も言うが、ここの設備で断言なんてものはできないが……」
そこで一度大きくため息をついて、保健室長は部屋の天井を見つめた。
トモカズが今いる部屋は、マーズ大書院の保健室──鏖殺人が担ぎ込まれた場所だ。
元々、本を読んでいる最中に気分が悪くなった利用者を、とりあえず寝かせておくような部屋であり、会議中に倒れるような重病人疑いの人間を置いておくところではない。
実際、担ぎ込んできた当初の、保健室長─定年した職員がとりあえずつくような仕事だ─の戸惑いは大きかった。
だが、トモカズにも事情というものがある。
「本当なのかい?鏖殺人本人が病院に運ばれることを拒否したって言うのは?」
「はい……。ビビりましたよ、担架で担いだ瞬間に意識を取り戻して、第一声が『下ろせ』だったんですから」
その一言で、慌てていたリュウが実際に二、三歩後ずさったほどである。
つい三時間前のことなのに、ずいぶんと昔のように思える。
「で、結局会議の方はどうなったんだい?」
「司会もいないのに、続けることもできませんしね。とりあえず中止ですよ。良かったのか悪かったのかは知りませんけど」
その時の混乱を思い出し、トモカズは遠い目をする。
この仕事を押し付けられた時から感じていたが、どうやら自分の厄年は今年のことだったらしい。
ため息をつこうとすると、保健室長の言葉が覆いかぶさってきた。
「しかし、倒れた瞬間にも病院行きを拒否するなんて、鏖殺人が病院嫌いって言うのは本当だったのかもなあ……」
「病院嫌い?鏖殺人が?」
意外な言葉が聞こえ、思わずトモカズは保健室長の方を振り返る。
少し休ませてほしい、と言い出した鏖殺人の起床を待っている身として、暇つぶしにはちょうどいい話題だった。
「ああ、戦いの中で斬られようが、殴られようが、はたまた魔法とやらで全身を焼かれようが、何故か一切手当てを受けないまま帰っていくっていうんで、昔から噂になっていたんだ」
「へえ……。仕事柄、むしろもっとお世話になっていそうなものですけどね」
「彼だけじゃない。彼の父親……先代ティタンの時も、そんな噂が立ってた。どれだけ傷を負っても、いつの間にか治っている超人、なんて呼ばれてな」
「もしかすると、一族代々病院嫌いなんですかね?それか、個人的に雇っている、腕のいい医者がいるのか」
そこまで口にしたところで、隣室への扉──鏖殺人の寝ている部屋の扉が、コンコン、と叩かれた。
反射的に、トモカズは立ち上がり、扉へと駆けよる。
「……迷惑をかけてすまなかった。誰か、来てくれないか?」
調子が悪いのなら、鼻声だったり、かすれ声だったりするのかもしれない、と思っていたのだが、その声はこのところ何回も聞いた鏖殺人の声そのものだった。息が荒い様子も見られない。
確かに、どこも悪くないというのは確かなようだ。
「マーズ大書院の糸井トモカズです。今行きます」
そう言いつつ、トモカズは扉を開け放った。
どうも、これが最後の仕事になりそうだ、と予感しながら。




