十話
それから、ずいぶんと時間が経って。
ユキが、転生局に配属された日のことだ。
その最初の日、鏖殺人が仕掛けてきた面接の内容を、ユキは今でも昨日のことのように思い出せる。
「失礼します」
声をかけると同時に、ユキは器用に局長室の扉を開ける。
相手が開けるのを待つこともできるのだが、「神」にそんな雑事をさせたくはない。
いい加減古くなっていたせいか、ユキが中に入ろうと車輪を回すたびに、車椅子がきゅらきゅらと音を立てる
だが、たいして気にもせずユキは鏖殺人の座る椅子にまで進んでいく。
鏖殺人が嫌がるのであればすぐにでも買い替えるが、今のところそんなことは言われていない。
「いらっしゃい」
ぼそり、と呟くような声で、重厚感のある椅子に腰を掛けた鏖殺人が返答をする。
「どう、も」
続いて放たれた特徴的な話し方の声は、白縫のものだ。
ふと顔を上げれば、鏖殺人の隣で、手持ち無沙汰に立っている。
どういう理由かは知らないが、ユキと同様、ここに来るように言われたらしい。
──この人たちに会うのも久しぶりだな……。
ある種の感慨を込めた声が、ユキの脳裏を占める。
まず、白縫の方とは、ユキにとっては二年ぶりの再会となる。
最初に出会ったのは、もうユキの足がこれ以上良くなりそうにない、と判明した時。
当時から白縫は転生局に所属しており、今と変わらず、禁忌技術の研究に精を出していた。
鏖殺人が転生者法施行細則の実施許可─異世界由来の技術の独占使用を、屁理屈染みた言い訳で取得してきた際、一番異世界の医療技術に詳しい、とのことで連れてきたのだ。
結局のところ、異世界由来の医療知識でも治せない、との結論がすぐに出たため、ユキと彼が面会したのはせいぜい三回程度に終わった。
だが、その浮世離れした性格から、二年経っても覚えていたのだ。
尤も、この場のユキにとっては、白縫などどうでもいい。
ユキにとっては、鏖殺人と久しぶりに出会えたことが、何よりも嬉しかった。
この時点よりも一年ほど前──ユキが大体の日常生活を自分の手で行えるようになった頃、鏖殺人はユキに一人暮らしするように告げ、家を出ていた。
「俺は、君と永遠に一緒に生きてやれるわけじゃない。同時に、酷なようだけど、君もいつかは一人で社会に出なくてはならなくなる。足のハンデや、免罪符のハンデを抱えても、だ」
「君がこれからの人生で苦しい目に遭った時、それが免罪符関連であった時はともかく、他の場面では俺は君を助けてやれない」
「人は基本的に、一人で生きていかなくちゃならないんだ。これまでの生活を見てきた限りでは、君にはもうそれをできるだけの力がある。……通いの介護士は送ろう。だが、それ以外の場面では、俺はもう君とは会わない」
鏖殺人の言い分は、要約すればこの三点だった。
もちろん、ユキは動揺した。
鏖殺人との生活の中で、ユキが涙を流したのは、あの時が最初で最後だ。
子ども帰りしたかのように暴れ、わめき、何度も鏖殺人に縋りついて────。
それでも、鏖殺人が態度を変えることはなかった。
最終的に、何とかユキが鏖殺人が去ることを受け入れたのは、それまでの生活の中で薄々わかっていたからだと思う。
鏖殺人が、あくまで仕事の一環でユキを引き取ったのだ、ということを。
「神」と心の中で呼ぶほどにまで慕っているのはユキの方だけで、鏖殺人の方は、ユキに対して人間的な興味を抱いていないようだ、ということを。
一般的に、人間は建前を重視するものだ。
例えば、あくまでお金が欲しいから医師になったような人物も、口では命を守るために医師になった、とのたまう。
名誉欲から政治を志した人物も、人に志望動機を問われた際には、国民のためだと言って譲らない。
だが、鏖殺人にそれはない。
鏖殺人は基本的に、自分の気持ちを誤魔化すだとか、それゆえに態度がぶれるだとか言うことはない。
彼が話す言葉は、全て本心で────そして本心であるが故に、口に出された言葉は、それ以上の意味を持たない。
これを理解したのは、何時のことだったか。
だが、ある種象徴的な逸話がある。
ユキが、発展教導院にいた時のことだ。
飛び級してきたユキが物珍しかったのか、同級生─といっても、ユキより三つほど年上だが─のうち何人かは、ユキの家について聞いてきた。
さすがに全部は話さなかったが、その場でユキは、ある程度の内容を正直に答えたことがある。
異世界転生者だと疑われて迫害を受けたために、鏖殺人に引き取られたのだと。
自分たちの想像を凌駕するユキの境遇に、何も言えなくなったのか、その場で同級生たちは帰っていった。
だが、その三日後、ユキは彼らが噂話をしている現場に、たまたま遭遇する。
ユキに聞かれているとも知らず、彼らはこんなことを口にしていた。
「あの子ってかなり可愛い顔してるし、鏖殺人って実はそれ目当てで引き取ったんじゃない?大きくなったら取って食おうとしてさあ」
「うわ、気持ち悪いなそれ……」
この会話を聞いた時、ユキは怒るよりも先に笑ってしまった。
あまりにも、彼らが鏖殺人の思考を理解していなさ過ぎて。
もし、鏖殺人がユキをそう言った目的で手元に置いたのであれば。
どんなにか、ユキは嬉しいだろう、と思って。
仮に、他の男性がユキを引き取ろう、などと言い出したのであれば、嫌な話だが、その可能性は存在したことだろう。
孤児を救いたい、というのが建前で、本音は自身の欲望、ということになる。
あるいは、そこまで悪辣な人物でなくても、他人に善行を施そうとする人物たちには、別の思惑があるものだ。
例えば、どうしても子どもが出来なかった夫婦が、孤児を引き取り、里親となったとしよう。
この時、その夫婦には当然、その子どもに家庭を与え、幸せにしてやりたい、という思いがあるのだろう。
だが、それと同じくらいに、彼らの中にはこんな希望もあるはずだ。
自分たちにも、血がつながってなくてもいいから、子どもが欲しい、と。
子どもがいる空間で家庭を営んでみたい、と。
ユキはその立場になったことがないため、推測にしかならないが、自分自身を満足させたい、という気持ちが全くない、などということはあり得ないだろうと思っている。
別に、それが悪いことだと言っているのではない。
ユキが、人間とはそういう生き物だと考えている、という話だ。
人間、よほど小さな事ならともかく、大きな善行の中では、他人に恩恵を与えながらも、自分の利益─金銭しかり、満足感しかり─を考えて行動するものだ。
だが、鏖殺人には、その手の思考が一切無いように思われた。
本当に、彼が言った通り、「免罪符のせいでユキが死ぬのを防ぐため」、ただそれだけのためにユキを育てているようだった。
だから、というべきか。
鏖殺人は、ユキの足の治療や、生活の便宜については良く取り計らってくれたが、それ以外のことについては、強い興味を持っていない様子だった。
恐らく、彼の思考はシンプルだ。
まず、鏖殺人は、転生者法に従って、異世界転生者はすべて殺すが、人間は誰一人殺さない。
だが、自分や転生者法が遠因となって、ユキが死にそうな目に遭った。
だから、転生者法を守るため、ユキを救う。
本当に、これ以外の思考回路は一切ないようだった。
ユキのことを守りたいと思ったから、転生者法を建前に使ったのではない。
転生者法を守りたい、と思ったから、彼はユキを助けたのだ。
ユキが死ねば、転生者法の基本理念が成り立たなくなってしまうから。
「君の足が治らなかったとしても、俺が君の車椅子を押すだけだ」
かつて、鏖殺人はユキにそう告げた。
だが、この場合の「君」とは、鏖殺人が救わなければならない対象としての、「君」だ。
ユキが、もう一人でやっていけるようになったのであれば。
鏖殺人にとっては、ユキは自分が関わらなくてはならない対象ではなくなる。
彼が車椅子を押すことも、無くなる。
そのことを、ユキは悲しいとは思わない。
苦しいとも思わない。
ただ、自分が崇めた人物がそういう考え方をしていた、と言うだけの話だ。
そもそも、ユキは「神」に見返りなど求めない。
彼は、何の躊躇いもなく、ユキから離れる。
一緒にいるうちに情が湧くだとか、ユキに対して男性として興味を持つなどというのは、あり得ないのだから。
ユキは、長い回想を打ち切り、入室以来押し黙ったままの鏖殺人を、改めて見据える。
一年前と相変わらず、顔を隠す仮面を身に着けたまま、彼は腕を組んだまま椅子に座っている。
──何を考えているのかな……。
今は上司となった鏖殺人を見ながら、ユキの頭には愚かな疑問が降りてくる。
当然、解答はすぐに思いついた。
──異世界転生者のことだよね、やっぱり……。
彼は多分、そのこと以外については思考しない。
それでいい。
それでもいい。
相手がユキに全く興味を抱いてなくても、そばに行くことが出来れば。
そのために、必死に勉強してここまで来たのだから。
「それでは、局長と副局長によって、簡単にだが面接をさせてもらう」
不意に鏖殺人が口を開き、部屋の空気は一気に引き締まった。
尤も、一人で鏖殺人の声に聞き惚れていたユキは別だったが。




