九話
それから、幾度かの治療を受けて、足を動かすことは依然として不可能ながら、辛うじて下半身の感覚を取り戻した頃。
ユキが入院して三か月ほど経った頃の話だ。
何度目かの見舞いに来た鏖殺人が、その話を切り出した。
ちなみに、この日はユキの中では記念日として記憶されている。
「君の同意があれば、なんだが……退院してからは、俺に君を引き取らせてはくれないだろうか?」
呆気にとられるユキの目を見据えて、鏖殺人は言葉を続ける。
「魔法戦争から百年以上が経ち、王都の気風は異世界転生者に対して同情的だ。君の素性が明らかになったところで、珍しがられることはあっても、迫害されはしないだろう。……だが、人々の風潮なんて流動的なものだ。また時間が経ち、王都の雰囲気が変われば、また君に危害を加える人間が出てくることもあるかもしれない」
「そのことが、ティタンさんは、いやなんですか?」
これは、ユキからした質問。
何となくだが、答えが分かっていながらした質問のような気もする。
実際、鏖殺人の返答も早かった。
「ああ、嫌だね。君の家で言ったことと同じだ。君がいつかそのせいで傷つき、悪ければ命を落とすようなことになったとしたら、それは状況を予見しながら君を手放した俺の責任だ。俺は異世界転生者でもない人間を見殺しにしたことになり、信念を果たせなくなる」
信念、という部分は特に、強い語調だった。
「だが、俺が君を引き取れば、さすがにそんなことは起きないだろう。転生局の局長である俺が、君を引き取り、かつ殺していない。このことが君が人間であり、異世界転生者ではないことの最大の証明になる。免罪符をも超える、人間の証明だ。だから……」
「くらします」
鏖殺人に、続きは言わせなかった。
食い気味に、ユキはベッド上で宣言する。
「ティタンさんと、いっしょにくらしたい、です」
鏖殺人の反応は、仮面に隠れて、良く見えなかった。
それから、王都での二人暮らしが始まった。
鏖殺人は、本当にユキに対して親身になって接してくれた。
ユキがどうしても、動かない足のせいでトイレを汚してしまった時には、慰めながら掃除をしてくれた。
ユキが着替えに手こずっていると、いつも気が付いて手伝ってくれた。
ユキが鏖殺人の手配で基礎教導院に通うようになってからは、勉強も見てくれた。
そして何より。
約束通り、彼は車椅子を押して、様々なところに連れて行ってくれた。
当時から忙しかっただろうに、どうやってあれだけの時間を捻出していたのか。
今でも、ユキは不思議に思う。
もう、この頃には、ユキは将来は転生局で働こう、と志していた。
周囲の人間には、この判断は不可解なものと映ったらしい。
少なくない人に理由を聞かれた。
なぜわざわざあんなところに?
君はむしろ、転生者法のせいで苦しめられてきた側じゃないのか?
鏖殺人に恩があるといっても、向こうだってそれが仕事だろう?
むしろ、間接的にだが、君の足を動かなくさせたのは、鏖殺人じゃないか?
そう考えれば、鏖殺人は君にとって恨みのある相手だろう?
ユキが幼い頃には、単純に善意から。
教導院で勉強の遅れを取り戻し、次第に良い成績を取るようになってからは、真剣に将来を心配して。
多くの人が、ユキの将来の夢を否定した。
これらの意見は、決して、一理無いわけでもない。
鏖殺人を圧制者として恐れる彼らとしては、当然の感想だったのだろう。
だがそれらは、鏖殺人のあの言葉に勝るほど、ユキの心を響かせるものではなかった。
「転生局の局長として、あるいは、最近よく呼ばれる、鏖殺人とか言う名前にかけて保証しよう。君は人間だ。このような扱いは、間違っている」
なぜ生まれてきてしまったのだと、なぜここまで苦しい目に合わなくてはならないのだと、世界の全てを呪っていたユキを、救った言葉。
周りの大人たちが、当たり前のようにユキを害する中で、唯一それが間違っていると明言してくれた言葉。
この言葉を与えてくれたのが、鏖殺人だから────。
だから、ユキは彼に恋をする。
この思いの激しさに比べれば、足が動かないことも、父親が異世界転生者だということも、鏖殺人がその父を殺し、間接的にユキの一家を極貧の暮らしに送ったことも、どうでもよかった。
いや、むしろ。
この恋を確固としたものに変えた頃には、ユキは、かつて自分に起こったことすらも、好都合だと考えるようになっていた。
確かに、ユキの足は動かない。
だが、こう考えることもできる。
「動かない」からこそ、鏖殺人はユキに構ってくれるのだ、と。
仮に、ユキが五体満足で健康な存在であったならば、ユキは、退院した頃にでも鏖殺人が選んだ孤児院にでも送られていたかもしれない。
当然の判断だ。
自分が関わった全ての子供を引き取ることなど、不可能なのだから。
だが、ユキの足が動かなかったために、鏖殺人はユキをそう言った施設に送ることに躊躇いがあったはずだ。
今でこそ、トイレにしろ、入浴にしろ、一人で器用にこなせるが、当時は、介助者がいなければ満足にできなかった。
子どもの介助まで完璧にこなす孤児院というのは、悲しいことだが王都にもなかなか無い。
もちろん、これだけが、鏖殺人がユキを引き取った理由なわけではない。
鏖殺人が口にした「自分がユキを引き取ることで、ユキが人間であることの証明とする」という目的の方が大きかっただろう。
だが、確実にユキの足は、その判断に貢献している。
そう思うと、罰当たりな話だとは分かっていても、ユキは、自分の足が動かないことが嬉しくなったぐらいだった。
病院に行くたび、絶対に治りませんように、と願掛けしたことだってある。
もはや、ユキの足を動かなくした、元凶の老人にも、怒りは湧いてこない。
彼のおかげで、ユキは鏖殺人と暮らせるのだ。
むしろ、一周回って感謝したいくらいだ。
恨んでいた父親にも、母親にも、感謝の念は尽きない。
異世界転生者の父を持たなければ、ユキは鏖殺人に会えなかった。
母が自分を捨てなければ、鏖殺人はユキを母親の元に戻しただろう。
よくぞ、異世界転生者でありながら、考えなしに子どもを作ってくれた。
よくぞ、自分一人だけ逃げて、ユキのことを捨ててくれた。
おかげでユキは、鏖殺人と出会えた。
自分の考えが、あまり常識的なものではないことぐらいは、ユキとて知っている。
同僚に話して引かれたこともあるし、鐘原に対して初めてこれを口にした時は、かなり驚いていた。
恐らく彼女たちは、ユキのことを内心、「狂っている」だとか、「歪んでいる」だとか考えているのだろう。
それが、一般的な考え、というものだ。
だが、その一般的な考えが、かつて一度でもユキを救ったことがあったか?
ユキが転生局に行くと言って、止める人たちは、かつてのユキを救ってくれるのか?
否。
ユキを救い、恩恵を与えたのは、鏖殺人だけだ。
鏖殺人が自分を救ってくれた時点で、私の命は、鏖殺人の物。
ユキは、本気でそう考えている。
命だけではない。
名誉も。
尊厳も
肉体も。
全ては鏖殺人の物。
そして。
この体に宿る魂は────私の物。
私だけの物。
その魂は、今、鏖殺人と共に在りたいと叫んでいる。
だから、私は鏖殺人の進む道に付き添う。
何としてでも、付き添いたい。
後に、鏖殺人に志望動機を聞かれた時には、他に色々と説明を付けたけれど。
実際には、この思いが根源なのだろう。
鏖殺人は、ユキに対して自分のことを「神ではない」と評した。
鏖殺人には悪いが、ユキはその認識には反対だ。
人に恵みをもたらす存在を、「神」と呼ぶのであれば。
人を救う存在を、「神」と呼ぶのであれば。
ユキにとっては、鏖殺人こそが「神」なのだ。




