一話
八章の語り手:アカーシャ国転生局顧問 天司エリカ
ある日、ある場所、ある国で。
とても凶暴で、怖い犬が居ました。
その犬は道行く人に噛みつくので、とても嫌われていました。
子どもも、大人も、老人も。
いっぱい、いっぱい噛みつかれました。
ある時とうとう、その犬のせいで死ぬ人が出ました。
その国の人々は話し合って、犬を殺すことに決めました。
そして、二度とこんなことが起きないように────この世全ての犬を絶滅させることにしました。
「……何でそんな話になるのよ!」
咆哮と言ってもいい程の叫びとともに、天司エリカは目を見開いた。
反射的に起き上がって周囲を見渡す。
そこに映るのは、深夜の自室の光景。
先程まで見ていた人々が犬を絶滅させる光景は、当たり前だが消え失せていた。
「……夢、か」
あまりの馬鹿らしさに、エリカは脱力してしまった。
どうやら酷い内容の夢を見たので、思わず跳ね起きてしまったらしい。
元々楽しい夢を見るような性格ではないのだが、それでもこんなことは初めてだ……布団をもう一度被って、彼女は二度寝しようとする。
だが数秒後、エリカは鬱陶しそうな様子で上半身を起こした。
部屋の外……天司邸の廊下kら、足音が聞こえてきたからである。
すぐに扉が開かれ、ランプ片手に女性が入ってくる。
「どうなされました、お嬢様?」
「大丈夫よ、イム。大したことじゃないから……」
入ってきたのは、エリカが雇い入れている護衛────紫藤イムだった。
今夜も夜番をしてくれていたらしい。
「お部屋から、絶叫のようなものが聞こえたもので……本当に大丈夫ですか?」
「ああ、うん。確かにそんなことも言ったけど、絶叫じゃないから」
どちらかと言えば、ツッコミが近い。
「本当に、ちょっと夢の内容が嫌だっただけだから。下がって大丈夫よ、イム」
「……左様ですか」
イムはその両目でじっとエリカを見つめた後、渋々頷く。
その様を見て、エリカは心の中で密かに苦笑した。
彼女を雇い入れてからかなり経つが、昔からこの心配性な部分は変わらない。
「あのような事件もあったばかりです。天司家のことを悪く思う人間も増えているかもしれません。悪夢を見る程の心労があるのは当然のことでしょう……ゆめゆめ、御自愛を」
「分かってる」
「では、おやすみなさいませ」
「うん、おやすみ」
くどいくらいに言葉を重ねるイムを何とかあしらい、ようやくエリカは二度目の眠りにつく。
同時に、体全体に疲労感が押し寄せてきた。
中途半端なところで起きてしまったせいで、疲労感が酷くなっている気がする。
彼女がこんなにも疲れているのは、エリカが普段から背負っている責務────アカーシャ国中枢統御会議所属特別機構「転生局」顧問としての職務のせいだけではない。
つい先日起こったグリス王国内での殺人事件にも、少しばかり影響を受けていた。
だからこそ、イムもああして心配していたのである。
二十八年前から続いていた連続殺人。
その犯人が、かつて天司家で護衛として働いていたという事実。
加えて犯人が、随分昔に亡くなった天司家当主の敵討ちをしようとしていたという動機。
この辺りのことが報道されて以来、天司家への風当たりは強くなっている。
昔のこととは言え、そんなとんでもない人物を護衛にしていたのか、みたいな批判をされているのだ。
事件の影響で、本来予定されていたエリカのグリス王国訪問も中止にされてしまった。
だからここ数週間、エリカは事後処理に翻弄されてきた。
本音を言えば、夢など見ている場合ではないのだ。
少しでも多く寝て、疲労を回復せねばならない。
故にエリカは思考を停止して、強く目を閉じた。
数時間後。
「……お嬢様?」
「……うう」
「お嬢様、起床時間です」
「……もうちょっと、ダメ?」
「ダメです。今日は今日の仕事があります」
言い終わらないうちに、イムはエリカの被っていた布団を引っぺがした。
ああ、と悲痛な声を漏らす間もなく、彼女はてきぱきとそれらを片付けてしまう。
ベッドの上には、寝間着姿で薄く涙を浮かべるエリカだけが取り残された。
「朝食の用意はできております。お早く」
「……はいはい」
寝ぼけ眼を擦りながら、エリカはぼんやりと返事をした。
本音を言えばもっと寝たいところだが、生憎とそういうわけにもいかない。
ただでさえ天司家について騒がれている時期なのだ……ここで一日休むだけでも、政治に強い新聞社に色々と書かれるだろう。
「……よっし!」
自分の両頬を両手で叩き、エリカは気合を入れた。
寝そべった状態から勢いよく立ち上がり、扉へと向かう。
廊下を歩く頃には、眠気は消え失せていた。
更に一時間後。
「……ねえ、イム」
「何でしょう、お嬢様」
「いつも聞いていることだけど、この宝石とドレスって本当に必要?」
「いつもお答えしていることですが、必要です」
朝食を済ませて、イムと共に私室に戻ってからのことだ。
部屋の鏡と大量の服を前にして、エリカとイムは毎日繰り広げる会話を再現していた。
議題となっているのは、エリカが出勤する際に着込む服装についてである。
「毎日思うんだけど、ドレスも宝石も正直邪魔なのよね。執務の時にいちいち外すのも面倒くさいし」
「しかし、いくらなんでも天司家の当主が一般職員と変わらない制服姿をするのも奇妙でしょう」
「別に、私はそれでもいいと思うけど」
「いいえ、良くありません。仮にやって見たところで『庶民に媚びている』だの、『宝石も買えない程落ちぶれた』だの言われるだけですよ」
「それは……そうかもしれないけどさ」
鏡を前にして、エリカは頬を膨らませる。
若くして転生局の顧問となったエリカは、毎日温度差のある視線に晒されている。
イムの言うことは、決して絵空事ではない。
「だけど、制服姿なら職場でも目立たないじゃない?こんな格好でいるから、三流雑誌に『成金趣味』だとか、『職場をパーティー会場だと思っている』だとか書かれるのよ」
「貧乏くさいと言われるよりもマシでしょう?……ほら、お嬢様、宝石を」
「……はーい」
ぶつくさ言いながら、エリカは大きな宝石が付けられたネックレスを受け取る。
ドレスも受け取って、追加で髪のセットと化粧も実行。
完全に流れ作業だ。
しかし、イムが仮面舞踏会に使えそうな仮面を持ってきたところで、もう一度エリカは抗議した。
「イム、ごめん。これまで何度も聞いてきたけど……この仮面、本当に必要?」
「これまで何度も申し上げてきましたが、本当に必要です。我慢してください」
一刀両断。
エリカの泣き言は封殺され、その顔には仮面が装着された。
あっという間に、仮面で顔を隠したお姫様風の女性像が完成する。
──ああ、これでまた、初対面の人間に引かれちゃう……。
流石に口には出さなかったものの、心中でエリカは盛大に愚痴る。
それくらい、エリカはこの仮面が気に入っていなかった。
顔を隠しているということで、不気味な印象を与えかねないと思っているからである。
少し前に転生憲章に関する会議に出た時などは、偶然話した司書にすら大分驚かれた。
転生局顧問の身の安全を守るために用意されている──顔を晒していると、顔を覚えられて異世界転生者に狙われやすいから──この仮面だが、エリカは不利益しか感じたことがない。
「……本当にこの仮面、先代の当主も使っていたの?ちょっと想像出来ないんだけど」
「私は当時お仕えしていませんでしたが、毎日使用しておられたそうですよ。私生活でも外さなかったとか……それこそ、今の鏖殺人のように」
イムの口から彼の名前が飛び出して、エリカは無意識に眉に皺を寄せた。
幸いにして仮面があるため、目元の変化には気が付かれない。
「あの仮面は特別でしょう……そもそも私、鏖殺人の素顔を見たことがないんだけど」
「私もありません。グリス王国でも、彼の素顔は国における七不思議になっているそうですけどね」
「何なら、人前で仮面を外したことあるのかな?」
「さあ、どうでしょう。もしかしたら、あの立場になって以来外したことが無いのかもしれません」
普通なら有り得ない話だが、鏖殺人なら何となく有り得そうな気もする。
以前に会った彼の姿を思い出しながら、エリカはそんな妄想をする。
そうこうしている内にエリカの準備が終わり……イムは一歩下がって、恭しく一礼をする。
「それでは、出勤のお時間です。行きましょう、お嬢様」
「ええ」
一度嘆息してから、エリカは馬車へと向かう。
外では、スズメがチチチと鳴いていた。




