第9話 茂みの中で
それから数時間後、猿丸は源次、一郎とともに病院の外壁沿いの茂みに潜んでいた。猿丸が手を挙げて合図すると、両側の舎弟がそっと顔を上げた。茂み越しに見える病室の窓。その向こうのベッドには、西道一之助が横たわっていた。
一郎はすぐに頭を引っ込め、ほっとしたように息を吐く。
「どうだ、イチ?」
「なんか、大勢いました」
「誰がいた?」
「えっと、白衣の姉ちゃんが……」
「白衣? 看護師か?」
「へい。やたらべっぴんで、やたら胸がデカかったです」
猿丸は一郎の額を指でぺちんと弾いた。
「あいてっ」
「馬鹿。知りたいのは姉ちゃんの胸のデカさじゃねえ。病室にいる奴らのもっと具体的な情報なんだよ」
すると、今度は源次が頭を引っ込める。
「どうだ、源次?」
「西道の手当て、終わったっぽいっス。そんでもって、病室にはいま、医者と看護師が一人ずつ、憲衛隊は三人いるっス」
「医者は慌ててるか?」
源次は再び顔を上げ、病室を覗く。それから少しして、しゃがみ込んだ。
「のんびりしてるっス。看護師の姉ちゃんに笑顔で話しかけてるっス」
「とりあえず、一命は取りとめたっぽいな」
「そうみたいっスね」
「胸と腹の肉に助けられたな、あのタヌキは」
猿丸はそう言うと、小さくほくそ笑んだ。
あのあと、猿丸と久世は下へ降りるなり、源次や一郎と合流した。だが、憲衛隊が来てしまったため、四人は一時的に西道から離れざるを得なかった。憲衛隊はこの燈和の国の治安や公共秩序を維持する国家組織。極道・黒鉄組は、当然のように日頃から目をつけられていた。
今夜四人がしていたのは護衛であり、特段咎められるようなことは何ひとつないのだが、それでもなるべく関わり合いを避けたいというのが本音だった。
だからこそ、三人はコソコソ隠れながら西道の様子を窺っていたというわけだ。一方の久世は、現場の様子が気になると言い残し、ひとり凛名館に残っている。
「あの、大丈夫なんでしょうか」
一郎が猿丸の耳元で、弱々しく尋ねた。
「あん?」
「護衛、失敗しちゃったじゃないですか。前金、返すことになるんですかね?」
「いや、まだそう決まったわけじゃねえ」
「え?」
「どういうことっスか?」
一郎と源次から同時に声が飛ぶ。猿丸は不敵に笑うと、茂みの中でふんぞり返った。
「あの宵狐さえひっ捕らえれば、謝礼は十分貰えるってこった」
源次と一郎は顔を見合わせた。二人の顔には揃いも揃って「逃げた宵狐をどうやって?」と書いてある。詳しい事情を話すべきか、猿丸は一瞬考える。が、すぐにかぶりを振った。
「説明すんの面倒くせえ。いいから俺に任せろ。それよりお前らに聞きたいことがある」
猿丸はさらに声を潜めて、静かに続けた。
「宵狐が西道を襲撃したとき、お前ら、刀抜いてなかったよな」
この言葉に、場の空気が一気に張り詰める。二人の顔が同時に強張るのを見て、猿丸は小さく息を吐いた。
「咎めようってわけじゃねえ。ただ知りたいんだ。お前ら、宵狐の太刀筋が見えなかったのか?」
二人は少し間を置いて、揃って頷いた。
やはりそうか──猿丸は確信した。刃を交えた宵狐の型は、久世の言う通り見慣れた燈和の国のそれではなかった。そして、今夜見た宵狐の太刀筋の中で、もっとも鋭く、もっとも洗練されていたのは、紛れもなく最初の一刀──西道に襲い掛かったときに繰り出したものだった。
おそらく、宵狐は初太刀ですべてを決める戦い方をするのだろう。追手が来て、戦闘が長引いてしまったことは誤算だったに違いない。長期戦に向いていないことは、あのあと息を切らしていた様子からも窺えた。それでも、あの俊敏さと身のこなしは、目を見張るものがあったわけだが。
「すんません……俺……」
一郎はそう切り出すなり頭を垂れた。
凛名館での出来事が、猿丸の脳裏に蘇る。
一郎は宵狐に斬りかかったものの、攻撃を幾度となくかわされた。そして、逆に切っ先を向けられると、震えて微動だにできなくなったのだ。
「ばーか。こういうのはな、場数が大事なんだよ」
「でも……」
一郎はしょんぼりと顔を伏せたままだった。月明かりがぼんやりと彼の坊主頭を照らすのを見ながら、猿丸はふうっとため息をつく。
「仕方ねえ。真面目なお前に、俺がとっておきの言葉を教えてやる」
「とっておきの……」
「言葉……っスか?」
気になるのか、隣の源次も聞き耳を立てた。猿丸は両隣に座る二人を交互に見やると、声を抑えながらも、一語一語をはっきりと言った。
「面白くなってきやがった……これが強くなる魔法の言葉だ。覚えとけ」
源次と一郎は揃ってがくりと前のめりになり、目の前の茂みに頭を突っ込んだ。だが、猿丸はそれを気にも留めず、淡々と続ける。
「ただし、人が死んだときには絶対使うなよ。いいな」
次の瞬間、ガサっと音を立てて源次が顔を上げる。一拍遅れて一郎も続いた。
「それ、兄貴のいつもの口癖じゃないっスか」
「ふざけないでくださいよ。真剣に悩んでるんですから」
二人の声を聞き流しながら、猿丸は鼻をほじる。
「馬鹿、俺はいつでも大真面目だっての。いいからやってみろ。強くなった気になるから」
「強くなった気になるんじゃなくて、本当に強くなりたいんです。兄貴、俺に稽古つけてくださいよ、お願いします」
一郎は猿丸に向き直った。そうして深々と頭を下げようとしたそのとき、猿丸は一郎のつるつるとした頭をがしっと掴んだ。
「だからその前にこれを言えっていってんだ、このタコ。さっきのお前みてえに怖気づくとな、俺はここで死ぬのかとか、そういうことばっかり考えちまう。そうなると、敵の強さじゃなくて自分の弱さに呑まれることになる。わかるだろ」
一郎ははっとしたように目を見開く。
「そうなったときに役立つのがさっきの言葉だ。弱さに呑まれたときは、とにかく自分の心を取り戻せ。俺との稽古はそのあとだ。わかったか」
別に言葉は何でもいい。要は、弱さに捉われた心を立て直すことができればそれでいいのだ。
猿丸の真意を察したのか、一郎は小さく笑って頷いた。
「あの……兄貴もそうだったんですか?」
「あ?」
「俺みたいに、怖いって思ったことがあったんですか?」
「当たり前だろうが」
「えっ……いつっスか? ……っていうか、誰っスか! 兄貴を怖がらせた奴って……」
猿丸はふと視線を落とした。愛刀の古びた鍔は、黒鉄組の代紋をあしらったものだ。その縁を、月明かりが淡く、細く照らす。光の筋を見て、猿丸は寂しげに笑った。
「そんなもん、一人しかいねえだろ」
そのとき、前方の茂みが微かに揺れた。三人は同時に身構える。すると……。
「僕、僕だよ」
聞き慣れた声に、三人は構えを解いた。久世は茂みの中からぴょこっと顔を出すと人懐っこく笑った。
「いやあ、てんやわんやだったよ。現場」
久世はわしゃわしゃと草をかき分けながら、頭を低くして猿丸たちへ近づく。猿丸の目の前に辿り着くころには、髪にたっぷりと草や落ち葉をつけていた。源次は話を遮らないように、また久世にも気づかれぬよう、一枚ずつそっと取り除いていく。
「憲衛隊やら見物人やら記者たちでごった返しててさ。元・最高審問官襲撃事件だからね。明日の新聞、一面間違いなしだ」
「何か収穫は?」
「憲衛隊が話しているのを盗み聞いたんだけどね……奴らも宵狐の仕業だと掴んでいた。これから天原の出入り口の門を押さえて、空き家や倉庫を捜索。山狩りもするみたい」
「すげえな。さすが天下の憲衛隊」
久世は源次と一郎を交互に見た。
「二人とも、先に屋敷に戻ってくれる?」
「え?」
「このことを相馬と帯刀に伝えて欲しいんだ。僕たちの帰りが少し遅くなるってことも」
「了解っス」
源次と一郎は頷くと、身を低くしたまま茂みの奥へ消えていった。
二人がいなくなったことを確認すると、久世はしゃがんで身を隠しながら病院の外壁に寄りかかり、ちらりと猿丸を見た。
「相変わらず、舎弟想いだね」
「あん?」
「面倒見がいい猿くんを、源次もイチも慕ってる」
猿丸は苦笑した。おそらく、久世はしばらく黙って猿丸たちの会話を聞いていたのだろう。そう思うと無性にむずがゆい気持ちになる。
「猿くんにも怖い人がいるなんて、びっくりしちゃったよ」
この言葉に、猿丸は思わず咳込んだ。久世はその人間が誰なのかわかっている。つまり敢えてすっとぼけているのだ。食えない言い回しに、「ごちゃごちゃうるせい」と言い返しかける。だが、その言葉を口にする前に猿丸は押し黙った。
先ほどまでの柔らかな表情から一転、久世が鋭く猿丸を見据えていたからだ。




