第10話 証拠なき確信
穏やかな夜風が撫でるように吹き抜けるなか、久世は静かに猿丸に問いかけた。
「それで本当なの? 宵狐が月影の花形っていうのは」
「ああ」
猿丸の言葉は確信に満ちていた。だが、久世は納得がいかないのか、眉を寄せたままだ。
「でも……それだと辻褄が合わない」
「何が?」
「覚えてる? 夕方に月影たち一行を大通で見たとき、人数は六人だった。そして、宵狐が西道を襲撃したとき、花形はたしかに舞台上にいた。さっき凛名館で確認したけど、月影一座は花形も入れて、六人全員揃ってたんだ。みんなで憲衛隊の事情聴取を受けていたよ」
猿丸は目を見開いた。夕方、大通を練り歩いていた月影は、花形を含む女の踊り子が三人、楽師の女が二人。そして、座長と思われる銀髪の男が一人──合計六人だ。
「仮に花形が宵狐だとしたら、戦闘のあと大急ぎで一階に戻り、素早く元の衣装に着替えて、憲衛隊の事情聴取に応じたことになる。あれほどの火傷で、できるわけがない。辛うじて戻れたとしても、呪印の炎を浴びれば会話も難しいはずだ。それは、猿くんが一番よくわかってるでしょ?」
猿丸は唸るしかなかった。自分が発する呪印の炎は、普通の炎とはわけが違う。それを猿丸は重々理解していた。
攻撃が止んだあとも、呪いの炎は邪悪な“気”となって、皮膚をえぐり、毒のように全身を蝕んでゆく。その痛みも時間とともに和らいではいくのだが、今の宵狐はおそらく、歩くことはもちろん、立っているのもままならないほどの激痛に見舞われているに違いない。
それなのに、花形が凛名館に戻り、憲衛隊の事情聴取を受けていたとはどういうことなのか。猿丸はひとつの疑問を投げかけた。
「憲衛隊は、月影たちに身体検査してたか?」
こういった事件では、憲衛隊は関係者の身体検査を行うことが認められている。
憲衛隊なら、舞台上にいた月影を疑い、身体検査をしていたとしても不思議ではない。花形の右腕に火傷の痕があれば、それが何よりの証拠になる。
そう思った猿丸だったが、久世の答えは予想に反するものだった。
「着物や衣装の上から、凶器を持っていないか確認されてたよ。憲衛隊の一人が、花形の右腕の袖をまくり上げていた。でも、彼女の腕に火傷の痕はなかった」
猿丸はあぐらをかき、しばらく押し黙った。
──そんなはずはない。
宵狐は月影の花形。それは間違いない。それなのに、右腕の火傷がないというのはどういうことなのか。
「猿くんは、どうして彼女を疑ってるの?」
生ぬるい夜風に溶け込むように、久世の声が柔らかく響く。猿丸は着物の懐をまさぐり、丸い満月の簪を掲げた。
「屋上で拾った。例の花形が夕方に落としたのと同じもんだ」
久世は簪を受け取り、月明かりにかざして、まじまじと眺めた。
「珍しい形だね。最近は見かけない意匠だ」
「これでわかったろ。宵狐はあの花形だ」
久世はため息を吐いて続ける。
「……それなら、宵狐が西道を襲ったとき、舞台上にいた花形は誰? そっくりさんってこと?」
少し投げやりな言葉に、猿丸ははっとした。そしてそのまま、がしっと久世の肩に手を回す。
「それだよ啓思、影武者だ」
「え?」
「表に出てたのは六人。だがその裏で、七人目がいたとしたら?」
久世は僅かに考えたあと、「あ」と小さく声を漏らした。この可能性に、彼も気づいたのだろう。猿丸は続ける。
「そもそも、月影はどうして夕方に大通を全員で練り歩いたんだ? いくら人気の一座とはいえ、演舞が始まる前に着物着て、化粧もして……それにこの暑さだ。不自然だろ」
芸の街、天原には大勢の踊り子たちが集う。だが、その大半は劇場内で着付けや化粧を済ませる。長時間、重たい演舞用の衣装を着るのは骨が折れるし、夏場は化粧も崩れるからだ。実際、天原で踊り子たちの練り歩きが見られるのは春先や秋が中心で、夏に見ることはほとんどなかった。
「言われてみれば、そうだね」
猿丸は視線を落とし、愛刀を見つめた。先ほどの激闘を思い出すように、鞘を握る手に力を込める。
「これは俺の予想だが、月影は大勢の人間に自分たちは六人の集まりだって思わせたかったんじゃねえか」
「つまり……本当の月影は七人。そのうちの一人が宵狐として西道を襲撃し、逃走する。残った影武者は花形を演じ、憲衛隊の事情聴取を乗り切るってこと?」
「ああ。襲撃の前、少し暗くなったろ。その隙に入れ替わったんだよ。花形は宵狐に。そして、影武者は花形に」
「ちょっと待って。暗転から照明が点くまで一分もなかったよ? 宵狐は黒装束、例の花形は煌びやかな着物を着てたじゃない。どうやってそんなに早く……」
「あいつらは売れっ子の一座。早着替えなんてお手の物だろ。造り帯なら簡単に外せるし、舞台上にいた楽師二人が協力すれば、もっと早く着替えられる。あとは狐面を被れば、宵狐になれるってわけだ」
久世の瞳が揺れた。そして顔を伏せ、右手を顎に添えた。これは考え事をするときの彼の癖だ。
「……そういえば、暗転と同時に音も止んだ。楽師二人が協力していたら、不可能じゃないかもね」
「ああ」
猿丸は言葉に力を込める。
「芸の一座ってのは、表向きの顔。舞台の上じゃ役者だが、その裏では周到に暗殺計画を練って、実行してた……そういうことなんじゃねえのか」
久世はしばらく表情を硬くしたまま押し黙った。だが、それも束の間。久世は猿丸の言葉をあしらうかのように、表情を緩めた。
「あんだよ」
「筋は通る。でも、七人目がいる証拠はまだないよ。宵狐が花形だっていう、確たる証拠もね」
「じゃあ簪はどうなんだよ」
「簪が屋上にあったからって、持っていたのが花形本人とは限らないよ。開演前に誰かに渡したのかもしれないし、偶然同じ意匠のものを宵狐が持っていたのかもしれない」
猿丸は深くため息をついた。ああ言えばこう言うとはこのことだ。宵狐が花形である可能性はある。だが、簪だけでは断定できない。それを久世は言いたいのだろう。
猿丸は病院の外壁にもたれたまま、ずるずると腰を前に滑らせ、そのまま地面に寝そべった。結局のところ、推測の域を出ない。花形は宵狐のはず。そう思っていたのだが──。
「猿くんらしくないな」
「あん?」
茂みに埋もれながら猿丸は久世を睨みつける。だが、そんな彼を見下ろす久世の眼差しは、どこか楽しげだった。
「本当は簪なんて関係ない。宵狐が花形だと確信した理由があるんじゃない?」
猿丸は夜空を仰いだ。そして、ゆっくりと手のひらを満月に掲げる。先ほどの闘いで感じた熱が蘇る。愛刀を振り下ろしたとき、宵狐の猛攻を受けたとき、心に秘めていた熾火のような熱がじわじわと巡っていくのを感じた。そして、似た熱を宵狐からも猿丸は確かに感じ取っていた。
猿丸は寝そべったままぐるりと首を回し、久世を見やった。
「笑うなよ」
「もちろん」
猿丸は再び満月へと向き直り、しっかりと掴むように手のひらを握り締めた。
「花形の演舞中、俺は殺気を感じた。宵狐も、花形と同じ殺気を纏っていた。対峙した俺が言うんだから、間違いねえ」
久世は納得したように小さく頷くと、猿丸の視線を追って満月を見上げた。
「御託を並べるより、いまの言葉の方がよっぽど説得力があるよ、猿くんの場合」
猿丸は笑った。この男には敵わない──そう心で呟きながら、素直に頷いた。
すると、次の瞬間、久世は思いもよらない言葉を口にした。
「憲衛隊は明日にも、宵狐に懸賞金をかけるつもりらしい」




