第7話 追う者、誘う者
男の腕に絡みついた炎を、朔夜はしばらく呆然と見つめていた。
──呪印はただの噂。そんなものはない。諦めなさい。
三年前にそう言われ、探すのを諦めた呪印。だが違った。現に、男の右手の甲に、不吉な印が刻まれているではないか。
炎は意思を持っているかのように、うねりながら男の刀に集まっていく。それを見て、朔夜は息を呑んだ。呪印の力は強大で、操るのは至極難しいと聞いたことがある。だが、男はその強大な力を軽くあしらっている。その表情にはどこか余裕すら感じられる。
朔夜の頬に冷たい汗が伝う。男はまるで獲物を見つけた捕食動物のように、不気味な笑みを携えていた。何かが、この男の闘争心に火を点けたのだろう。面倒なことになった。まさかこんなところで、呪印持ちに出会ってしまうなんて。
どうする?
どうやって呪印に太刀打ちすれば──。
「猿くん!」
唐突に刀の男は呪印の力を消した。声の主は、銃の男だった。銃の男はぴしゃりと、有無を言わせぬといった風に、刀の男を鋭く見据えている。
刀の男はため息を吐き、改めて朔夜へ向き直る。そしてゆっくりと、切っ先を狐面へ向けた。
「安心しろ。さっきの炎はもう出さねえ」
すると、刀の男は挑戦的に笑った。
「だってそんなことしたら、あっという間に勝負ついちまうもんなァ。そうだろ? 狐野郎」
──殺す。
朔夜は奥歯をぎゅっと噛みしめると、男に向かって突進した。そして、息もつかせぬ斬撃を繰り出していく。
「おおっと、やっぱ速えな」
男は笑いながら、刃を寸前でかわした。朔夜は跳ねながら後退し、すかさずまた距離を詰める。相手の予想の裏をかき、続けざまに小太刀を振るう。刃は糸を引くようにしなやかな弧を描いたが、どれも空を切り、男の肌にかすりもしなかった。朔夜はさらに相手の間合いへ入ろうと、一歩踏み込む。すると、男の膝がぬっと狐面めがけて飛んできた。朔夜はそれをかろうじてかわし、後退して距離を保つ。気づくと、息はかなり乱れていた。
「疲れるよなァ。無理すんなって」
男は刀の峰を肩に預けると、へらりと笑った。
朔夜は肩で息をしながら、拳を握りしめる。
あからさまな挑発に乗ってどうする。無闇に飛び込めば相手の思う壺。もっと冷静に、相手を観察しなくては──。
朔夜は呼吸を整えながら、目を凝らす。
先ほどまでくっきりと浮き出ていた呪印は、男の手の甲からすでに消えていた。どうやら、本当に呪印の力を出すつもりはないらしい。
だが、呪印なしにしても手強いことに変わりはない。そして何よりこの余裕。呪印以外にも何か奥の手を隠しているような気がしてならない。いったい何者なのだ。金で雇われた、ただの護衛には到底見えない。
朔夜はふうっと息を吐き、ゆっくりと吸った。そして、心を鎮めていく。
そのとき、脳裏にある言葉が蘇った。
──朔夜。命の駆け引きは、何も腕っぷしだけで決まるものではありませんよ。
ふと、カランという軽快な音が聞こえた。刀の男が履いている下駄だ。そういえば、この男の格好は妙に古めかしい。着物姿も、そして下駄を履いていることも。
朔夜はちらりと窓を見ると、硝子を割って脱兎のごとく飛び出した。
「あ、ちょ……待ちやがれ!」
背後から男の声が聞こえる。
──追ってこい。
腕で敵わないなら、地の利を生かす。劇場内の敷地はすでに頭に叩き込んでいる。屋上がどんな造りになっているのかも。
朔夜は壁を伝い、くるりと屋上に降り立った。待つこと数秒。刀の男が息を切らして壁から這い上がってきた。
「こんにゃろう……ちょこまかと」
やはり追ってきた。すると、数秒遅れて銃の男も屋上に身を乗り出した。だが、刀の男とは異なり、顔が青ざめている。
「ちょ、ちょっと高いね……ここは」
「座ってろ、啓思。あとでちゃんと下ろしてやるから」
刀の男は足元に目を凝らした。そして、朔夜の意図に気づいたのか、一瞬顔を強張らせる。
劇場の屋上は、丸みを帯びた小塔が三つほど点在していた。塔の周りは急に傾斜しており、屋上には滑りやすい金属板が一面に張られている。さらにその継ぎ目は盛り上がっていて、とにかく足場が悪い。下駄で歩いたり、走ったりすれば、簡単に体勢を崩してしまうほどに。
朔夜は懐から瓶を取り出し、中の液体をそっと刃に垂らした。この行為の意味を察したのか、銃の男は途端に顔を引き締める。
「猿くん気をつけて。あれ、毒だよ」
「なかなかセコイこと考えるじゃねえの、狐野郎」
刀の男はそう言うと、刀の切っ先を朔夜へ向けて笑った。
「どっからでもかかってこい!」




