第6話 朱の兆し
消えていた照明が点き、舞台と観客席が照らされる。それと同時に、観客たちから一斉に悲鳴が上がった。
西道は胸から血しぶきを上げ、床にぐったりと倒れ込んだ。両隣に座る源次と一郎は、呆然とそれを見つめたままだ。
よく見ると、二人とも刀を抜いていなかった。速すぎる宵狐の奇襲に反応できなかったのだ。だが、一拍の間を置いて、源次が声を張り上げた。それに呼応するかのように、一郎も刀を抜く。二人は同時に宵狐に斬りかかった。だが、宵狐は軽やかに跳ねながらそれをかわし、舞台上へ逃げていく。必死に斬撃を繰り出す二人に対し、宵狐は受け太刀すらしていない。その余裕があまりにも不気味で、猿丸の背中を嫌な汗が伝う。
状況を察したのか、花形たち月影は身を隠すように袖へ向かって駆け出した。観客たちも続々と劇場の外へ逃げていく。劇場内はたちまち阿鼻叫喚となった。
猿丸たちも西道の席へ向かおうとしたが、人の波に呑まれてしまい、遅れをとった。
奥歯を噛みしめて前を睨むと、ちょうど攻撃を跳ねながらかわしていた宵狐が、切っ先を一郎の胸元へ向けたところだった。一郎は顔を強張らせ、一歩下がる。よく見ると、その足は微かに震えている。その様子を見た源次は、一郎を庇うように前に躍り出た。
「源次、よせ!」
猿丸の声と同時に、乾いた銃声が響く。銃弾は宵狐の面のすぐ横をかすめた。猿丸ははっと隣を見る。そこには銃を構えた久世がいた。
宵狐は銃弾の主を探るように、狐面をはっきりと久世へ向けた。その隙に源次が宵狐に斬りかかる。だが、宵狐はひらりとそれをかわすと、一直線に久世と猿丸に向かって駆け出した。
「抜け! 赤也!」
銃弾を放ちながら、久世が叫ぶ。
久世がその名を呼ぶのは、決まってこんな状況に限る。
気づくと、猿丸と宵狐を隔てる人は誰もいなかった。猿丸は愛刀──篝の柄を握り、大股で駆け出す。そして、向かってくる宵狐を迎え撃つべく、刀を振りかぶった。
「うらあ!」
瞬間、金属音が響く。刃がぶつかり、二人は僅かに拮抗した。やがて宵狐が後ろに大きく仰け反った。改めて構え直した猿丸に、宵狐は容赦なく斬撃を繰り出してくる。
断続的に響く金属音。猿丸は斬撃をどうにか受け流しながら、感嘆していた。宵狐の猛攻は、いままで出会った誰よりも俊敏だった。ふと、猿丸の脳裏に一郎の言葉が蘇る。
──宵狐は相当すばしっこいらしいです。
猿丸は場にそぐわない笑みを浮かべた。喧嘩上等──頭の隅に押し込んでいた言葉が反響する。かつて喧嘩に明け暮れていたころ、何度も口にした言葉。それをいま思い出すことになろうとは。長らく抑え込んでいた感情が溢れ、顔が熱くなるのを感じた。
猿丸は距離を置き、再び刀を振りかぶる。宵狐は避けきれず、小太刀でそれを受けた。そして、猿丸の刀を受け流そうと、身体を器用に捩る。だが、猿丸はそうはさせまいと剣先に力を込めた。宵狐はその力に耐え切れず、屈むようにしてどうにか刀を受けている。間近に迫る狐面を見て、猿丸はにやりと笑った。
「なかなかやるじゃねえの、狐野郎」
だが次の瞬間、宵狐の蹴りが猿丸の腹に飛んできた。浅かったが、気を逸らすには十分だった。宵狐はその隙を突き、颯爽と踵を返して、劇場横の通路へと逃げ込んだ。
「……あんにゃろう」
猿丸はすかさず、源次と一郎に向かって叫ぶ。
「医者を呼べ! いいな!」
猿丸は舎弟たちの返事を聞くことなく、宵狐の背中を追いかける。その数秒後、後方から聞き慣れた足音が届いた。
「僕も行く」
二人は無言で頷き合うと、並んで走り出す。猿丸は宵狐の背中を見て、舌打ちをした。
「まさか堂々と殺りに来るとはな。どう見る? あいつ」
「上背は無いし、大人にしては華奢すぎる」
久世は走りながら拳銃の弾倉を確認する。
「それに、走り方も若い。余程痩身な男か、もしくは……」
「ガキか」
「十四、五の少年ってところかな。僕の予想では」
「他に気づいたことは?」
「あの攻撃の型……見たことがない。少なくとも、僕が知る燈和の武道じゃない。それにあの跳躍力……異国の武道の使い手かも」
猿丸は笑った。腹の底が祭囃子みたいに浮きだっていく。
一方、久世は目を伏せるなり深々とため息をついた。
「どうした、啓思」
「だって、護衛は失敗だよ。せっかく受け取った前金も返さなきゃならない。そう思ったら、胃がキリキリしちゃって」
「心配すんな。西道のタヌキはまだ生きてる」
「え?」
「宵狐がこっちに向かってきたとき、うっすら手が動いた。派手にやられたが、たぶん致命傷じゃねえ」
「そうは言ってもさ……」
「ここからは俺に任せろ」
猿丸はそう言うと、横目で見据えた。
「俺が狐野郎をひっ捕らえて、タヌキに差し出す。そうすりゃあ金は貰える。タヌキにとっちゃあ俺たちは命の恩人。護衛の失敗は帳消しだ。文句は言わせねえ」
「そんな強引な話、タヌ……西道が納得するかな」
「納得させる。いいから俺に任せろ」
猿丸は久世に向かってあっけらかんと笑った。久世はその笑みを訝しげに眺めたあと、観念したように頬を緩ませる。それは半分諦めのようで、半分は猿丸への信頼が滲んでいた。
「頼りになるんだか、ならないんだか」
だが、久世はすぐに表情を引き締める。
「でも逃げられたら終わりだ。あの宵狐、相当すばしっこいよ」
「いや、よく見ろ」
猿丸は顎で前方を指し示す。十メートル以上差があった宵狐の背中が、今は八メートルほどに縮んでいた。
「すばしっこいが、体力はそうでもねえ。疲れてきてるのが見え見えだ。啓思、お前は──」
「邪魔すんな、でしょ? わかったよ」
久世は慣れたように猿丸の言葉を受け流すと、握っていた拳銃を腰のホルスターへと収めた。
…………。
………………。
────近づいてくる。
走りながら、朔夜は背後の気配をはっきりと感じ取っていた。追手は二人。銃を撃ち込んできた男と、刀を豪快に振り下ろしてきた男だろう。
西道に護衛がつくとは思っていたが、ここまで追ってくるのは想定外だった。そして、あの場で銃弾が放たれたことも。
朔夜の脳裏に銃を撃った男の顔がよぎる。西道の隣にいた護衛たちの仲間だろう、と朔夜は察した。普通、あの状況で銃は撃たない。動き回る敵を仕留めるのは至難の業だし、万が一仲間に当たるようなことがあれば、笑い話にもならない。それでも、奴はそれをした。仲間を守りたい一心か、腕に自信があるのか──。
どちらもだろう。だが、きっともうひとつ理由がある。
銃を撃った男は、刀を持った男に「抜け」と叫んだ。その直後、刀の男が朔夜の前に立ちはだかった。
朔夜は舌打ちをする。あの銃撃は朔夜を仕留めるために放たれたのではない。刀の男のもとへ、自分を誘い出すためだったのだ。
追手二人の足音がさらに近くなる。このままでは逃げきれない。となれば、結論はひとつ。
──ここで殺る。
朔夜は踵を返し、走る。瞬間、男たちの目が大きく見開かれた。刀の男が前に出て、大きく振りかぶる。朔夜はそれが振り下ろされるよりも前に、男の懐に斬りかかった。
小太刀の切っ先が男の左胸を引き裂く。殺った──そう思った。だが、男の傷口から赤い血が流れてくることはなかった。それどころか、鼠色の靄のような塊がその傷口を覆っている。先ほど肉を斬ったと思った朔夜の斬撃は、正確には肉ではなく、この不気味な靄だったのだ。
経験したことのない感触に、朔夜は思わずたじろぎ、慌てて距離をとる。よく見ると、刀の男の右手から腕にかけて、靄がまとわりついていた。それはまるで蛇のように男の腕に絡みつき、息を潜めているようだった。鼠色だった靄は、周囲の空気を飲み込みながらどんどん光を増し、瞬く間に赤い炎のような熱を帯びてゆく。男の身体から溢れ出る、殺気と歓喜が入り混じったような禍々しい感情。右手の甲には、黒い円形の印がじわりと浮き上がっていた。
狐面の奥で朔夜は大きく目を見開く。
──まさかこの男、呪印持ちか。
刀の男は威風堂々と立ち、朔夜を見据えた。そして、祭りを愉しみに来た少年のように、にやりと笑った。




