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新月よ、朱く染まれ  作者: あさとゆう
第一章

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第5話 月影に紛れて

 それから源次たち舎弟は西道の両隣に座り、猿丸と久世はそこから数メートル後方に立った。客席から僅(わず)かに離れており、照明も当たらない。立ち見でも目立たないし、他の観客の邪魔になることもないだろう。


 照明がほのかに灯るなか、久世はぽつりと呟いた。


「……西道の隣、猿くんに座ってもらった方が良かったかな」

「ん?」


 猿丸は、久世の横顔を見やる。その表情はどことなく曇っていて、不穏なものを感じさせた。

 猿丸はため息をつき、あっけらかんと言う。


「心配ねえよ。俺がお前でもそうする。護衛の本番は、あのタヌキが劇場を出たあとだ」

「……うん」


 久世の表情は強張ったままだった。嫌な予感が渦巻いているのだろう。そんな久世の背を猿丸は少し強めに叩く。


「あいてっ」

「啓思。お前、もう帰っていいぞ」

「え?」

「あとの護衛は俺たち三人でやるから」

「ちょ、ちょっと待ってよ。突然どうしたの」


 猿丸は久世をじっと見据えた。


「寝てねえだろ、お前」


 久世は大きく目を見開いた。そして、困り顔で笑う。

 猿丸は知っていた。久世は寝不足のとき、決まって目の下にくっきりとクマが残る。そしてそのクマはここ数日、まるで消えていなかったのだ。


「仕事が終わらねえなら俺にも振れよ、このタコ」


 久世はふにゃりと気が抜けたように肩をすぼめると、猿丸の腕をポンポンと叩いた。


「違うんだよお。仕事じゃなくて、ちょっと気になる本があってさ」

「あ?」

「それがすごく面白くて、夢中になって読んでたら、つい」


 猿丸はため息をついた。仕事をしているとばかり思っていたが、まさか読書だったとは。

 呆れ顔になる猿丸をよそに、久世は照れくさそうに頬を掻いた。


「ありがとう。でも最後までいるよ。僕、若頭だから。それに……」


 久世は真っ直ぐ舞台を見つめた。その瞳は壁から漏れる琥珀色(こはくいろ)の光を受けて、きらきらと輝いていた。


「せっかく、あの月影の舞台がタダで見られるんだから」

「そうかい」


 次の瞬間、僅(わず)かに灯っていた照明が落とされた。

 わっと拍手が湧き起こる。それもしばらくすると静まり、やがて静寂を縫(ぬ)うように舞台上から笛の音が響いた。鳥のさえずりのようなその音は、小さいながらも猿丸たちの耳にしっかりと届いた。


 笛の音がしばらく劇場内に響き渡ったあと、一点の照明が舞台中央を照らす。舞台上では、光に包まれるように二人の女が立っていた。彼女たちはそれぞれ剣をしっかりと持ち、舞いながら刃を交えていく。勇ましい剣さばきに調和していく舞──まるで一騎打ちをしているかのような息が詰まる緊張感も、彼女たちは見事に芸へ昇華していく。二人の迫力に呼応するかのように、激しさを増す笛の音。そこに太鼓の音も加わり、舞台はより一層荒波のような勢いに呑まれてゆく。


 激しい舞がしばらく続いたあと、笛と太鼓の音は徐々に弱まり、二人は静かに距離を置いた。そしてゆっくりと剣を収め、風然と舞台から去っていった。


 暗転とともに、観客たちの拍手が響く。

 しばしの間を置いて、再び一点の照明が舞台中央を照らした。そこに立つのは、朱色の着物に身を包んだ、ひとりの女だった。


 猿丸ははっと顔を上げる。彼女は先ほど簪(かんざし)を手渡した、月影の花形だった。


 花形は天に向かって右手を伸ばすと、さらりと跳躍し、着地とともに扇子を開いた。顔の下半分を隠すと、扇の上から視線をゆっくりと巡らせ、腰をなまめかしくひねる。

 次の瞬間、花形は扇子をぱちんと閉じると正面を見据え、その先に向かって真っ直ぐ扇子を突き出した。猿丸にはその扇子が、まるで真剣のように感じられた。花形の視線は鋭く、真っ直ぐで、動作には微塵(みじん)の隙もなかった。


 芸に疎(うと)い猿丸も月影が──というよりも、花形が話題になるのがわかった。


 この花形は格が違う。彼女が右手を伸ばせば、観客の視線はその指先に自然と吸い寄せられる。だが、その陰にある左手にも、一分の隙も見られない。誰も見ていないであろう指先にまで神経を通わせている。猿丸は花形の右手から、左手へ。さらに足許へと目を移す。間を支配したかのような足捌きも見事なもので、どこをどう見ても感嘆の息が洩れそうになる。


 だが──。


 猿丸はふと、奇妙な感覚に襲われた。


 舞は格段に美しく、洗練されている。

 だが、彼女の舞から放たれる「熱」は、芸のそれとは少し異なっていた。彼女の「熱」は、猿丸が数多(あまた)の戦いの中で、肌で感じてきたものと酷似していた。


 鋭くて、生々しくて、力強い──強者だけが知る、そんな熱だったのだ。


 猿丸は本能的に身体を強張らせた。鉄鍔にかけた左手の親指に、僅かに力がこもる。


 舞台上ではなおも優雅な音と舞が続く。だが、それに紛れる形で、確かに別の感情が渦巻いていた。この感情は──。


 ──殺気?


 次の瞬間、何の前触れもなく照明が落ちた。それに呼応するように、笛と太鼓の音がぴたりと止んだ。一瞬の間の後に観客たちが騒ぎ始める。


「……演出かな?」


 隣で久世が低く呟く。


 確かに演出のようにも見えた。だが、それにしては唐突だし、何より間が長すぎる。

 猿丸は一歩進み、さらに目を細める。久世も異常事態を察したのか、腰のホルスターに収めていた拳銃に手を伸ばした。


 そのとき、ようやく舞台袖の照明がひとつだけぽつりと点いた。


 そこには、先ほどまで踊っていた花形や、笛と太鼓を奏でていた女たちが怯えた様子で立ち尽くしていた。彼女たちは身を守るように寄り添いながら、ある一点──舞台の中央に視線を向けている。


 そのとき、仄暗(ほのぐら)い舞台中央で影が揺れた。闇に紛れる形で黒装束の人影が佇んでいるのがわかる。瞬間、人影の胸元がきらりと光った。刃だ。艶のある鋭い刃先は、僅かな照明を受け、人影の顔をぼんやりと照らす。それは人間の「顔」ではなく、小さな耳が二つ付いた狐面だった。


 次の瞬間、狐面の暗殺者──宵狐(よいぎつね)が跳躍した。


「源次、イチ! 刀を──」


 抜け──言い終えるより早く、宵狐は西道の目の前に降り立った。

 そして次の瞬間、目にも止まらぬ速さで胸元を一文字に斬り裂いたのだ。


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