第3話 夜の幕開け
迷路のように入り組んだ歓楽街を抜けると、前方にひときわ大きな、三階建ての建物が見えた。天原の中央区でもっとも大きな劇場──凛名館だ。
白い外壁に並ぶ窓は、どれもアーチ状の曲線を描いていた。劇場の屋上には異国の塔を思わせる丸みを帯びた突起があり、その上には銀色の鳳の像が飾られている。それがまた一層、優雅な雰囲気を醸し出していた。
大きく、重厚感のある扉は開かれていて、大勢の人たちが館内へと足を踏み入れていく。服装はみな和洋折衷で、着物姿の者もいれば、煌びやかなワンピースを纏った者、男性にいたってはタキシードを着た者もいる。久世は人ごみをかき分けて中へ入ると、淡々とこう告げた。
「まずは依頼主に挨拶しないとね」
四人は琥珀色の照明に照らされた広い廊下を抜け、ひとつの部屋の前で足を止めた。
コン、コン、と久世が品よく扉を叩くと、少し間を置いて「どうぞ」という野太い声が響く。
扉を開けると、ずんぐりとした体型でタキシードを纏った西道一之助が、椅子にふんぞり返っていた。昨年から隠居生活を送っている西道はすでに七十を超えている。頭には毛一本ないものの、もじゃもじゃとした髭は健在で、年齢のわりには妙に精気がある。丸みを帯びた顔に寄り気味の両目。その姿は、猿丸には一瞬、タキシードを着たタヌキのように見えた。
そんな西道の横にはひょろりとした男が佇んでいた。こちらも西道同様にタキシード姿だが、着慣れていないせいか妙に襟元を気にしている。
西道はパイプ煙草をふかし、旨そうにそれを吸うと、目の前の机に置かれた灰皿に灰を落とした。そして、久世をぎょろりと見据える。
「黒鉄組か」
「はい。若頭の久世と申します。この度の護衛の監督者だと思っていただければ」
久世は西道の隣に立つ若い男をちらりと見た。
「大方の作戦は秘書の方と打ち合わせ済みです。まずは前金で金銭五十枚、いただけますか」
秘書は無言で久世に近づき、手のひらほどの麻袋を差し出す。久世はそれを受け取ると、ざっと中を確認した。
「たしかに」
こういった用心棒の仕事では、必ず前金を貰うよう久世は皆に申し伝えていた。黒鉄組のような裏稼業への依頼は「内密」が原則。正式な契約書などないからだ。
「ちゃんと護衛してくれるんでしょうな」
「お任せください。黒鉄組の中でも血気盛んな者を連れてきましたから。ところで、ひとつ気になることが」
久世は唐突にへらりと笑うのをやめ、表情を引き締めた。
「あなたは司法の最高審問官という大役を担っておられた御方。当然、憲衛隊との繋がりも強いはずです。脅迫状が届いたことを憲衛隊に言えば、それこそ無償で護衛をつけてくれるでしょう。なぜ、我々のようなならず者に依頼を?」
どうやら、この西道は脅迫状で脅されていたらしい。初めて知る情報に、猿丸は僅かに眉を引き締める。
一方の西道は、久世の問いに動揺したのかせわしなく視線を泳がせていた。そうしてようやく、言葉を絞り出す。
「信用していないからだよ。憲衛隊を」
「ほう」
「憲衛隊は行動ひとつ取るにしても、あらゆる指揮系統から許可を得なければならない。野蛮な輩が襲ってきて、上官の指示がないと動けんような憲衛隊に命は預けられん」
「なるほど」
西道はむくりと立ち上がり、猿丸たちに一歩ずつ近づいてきた。背はここにいる誰よりも低いのに、猿丸には彼が自分たちを見下しているように思えた。それもそのはず。西道はピンと背筋を半分仰け反るような形で歩き、猿丸たちを文字通り見下していたのだ。
「しくじるなよ」
「もちろん」
淡々と応える久世に、西道はさらに睨みを利かせた。その目は冷徹で、氷のように冷え切っている。
「言っている意味を理解しているのかな? 護衛はもちろん、貴様らのような野蛮な連中の素性も周囲に悟られるな、と言っているのだよ」
「ええ。もちろん」
久世は敢えて同じ言葉で言い返した。西道の蔑視を感じ取ったのだろう。久世の言い方には静かな怒りが滲んでいた。西道が鼻で笑って背を向けたところで、久世は一礼し、三人を連れて部屋を出た。扉が閉まった途端、源次は舌打ちをする。
「なんスか、あいつ。タヌキみてえな顔しやがって」
久世は「まあまあ」とたしなめる。一方、猿丸は扉を睨みつけたまま呟いた。
「嘘だな」
久世は小さく笑い、頷く。
やはり彼も同じことを思ったらしい。源次と一郎は何の話かわからないのか、首を傾げている。
西道はかつて最高審問官だった男。それほどの権力者なら、この国の公共秩序を維持する憲衛隊も自由に動かせる。憲衛隊が上の指示待ちという話はもっともだが、事情を話せば公費で西道を護衛するはず。その規模も黒鉄組とは比べ物にならない。
それにもかかわらず、西道は金をかけて黒鉄組に護衛を頼んだ。つまり、憲衛隊に依頼できない事情があるのだ。
「裏では相当やべえことしてたんじゃねえか? あのタヌキ」
「だろうね。脅迫状が来るぐらいだし」
久世は笑みを浮かべたまま、言う。
「笑うとこじゃねえだろ」
「だって相手の事情なんて知ったことじゃないから。お金さえ貰えれば、それで」
まあそうかと、猿丸は納得して考えるのをやめた。西道がどこで恨みを買い、誰から脅迫状を受け取ったのか──そんなことはどうでもいい。久世の言う通り、金さえ貰えればそれでいいのだ。
猿丸はふと窓を見る。そこから広がる空は、茜色から深い藍色に変わっていた。夜の気配に呼応するように、猿丸の内に残っていた僅かな眠気がゆっくりと薄れていく。
──つくづく、俺は夜行性だな。
猿丸は口元を引き締め、窓から覗く満月を睨みつけた。
こうして、長い一夜が幕を開けたのである。




