第15話 久世の深慮
夕暮時、猿丸は縁側に寝そべっていた。日差しが和らいだとはいえ、この時間でもまだまだ暑い。顔にじっとりとした汗が滲むなか、猿丸は目を開けた。そして起き上がるなり、瞬きをした。目の前にいたのは久世。縁側に座りながら柱にそっと身を委ね、目を閉じている。
先日のシャツとベスト姿から一転、今日の久世は藍色の浴衣に身を包んでいた。久世は仕事で外に出る日は洋装だが、一日中屋敷で過ごす日は和装が多い。今日はまさに、そんな日だった。
本を持っているところをみると、読書中にうたた寝をしてしまったのだろう。彼の右手の人差し指は、読みかけの頁に挟まれたままだ。
起こそうか迷ったそのとき、久世の右手からずるりと本が滑り落ちた。猿丸は慌てて右足を伸ばし、落ちる寸前に足の指で器用に本を掴み取る。そしてふうっと息を吐き、本をそのまま静かに縁側に置いた。久世はそんな猿丸の苦労など露知らず、すやすやと寝息を立てたままだ。
──このまま寝かせておくか。
だが、そんな猿丸の気遣いもむなしく、若頭補佐の相馬梗と黒鉄組きっての剣術の使い手、帯刀慎之介が声を上げて歩いてきた。
「おおい、猿丸ゥ、久世ェ~~」
一帯に響き渡る相馬の場違いな声。デカい声出すな、と猿丸が言いかけたとき、久世がぱちりと目を開けた。そして、相馬と帯刀を見るなり穏やかに微笑む。
「ああ。二人とも、どうしたの?」
「今日、帯刀と芝居小屋で護衛の仕事したんだけどさ、そこに京永の学者が来ててさ。これ貰ったんだ。見てみてよ」
相馬はそう言うなり、くしゃくしゃの紙袋を掲げた。
京永は燈和の国の首都で、この天原から鉄道で五時間ほどの場所にある。
「これ、サルミアって言うんだって」
「さるみあ?」
「異国の草。煎じて飲めば、古肺病に効くって。親父に飲ませてみたらどうかな」
猿丸と久世の眉がぴくりと動く。
──古肺病。
その病こそ、皆の親父こと黒鉄組組長・黒鉄譲寿の身体を蝕んでいる病だった。
軽い空咳から始まり、やがて高熱や食欲の低下を引き起こす。進行すると痰に血が混じり、ついには咳とともに血を吐くようになる。
古肺病はかなり珍しい病で、血を吐く前までの症状が普通の風邪とさほど変わらない。そのため症状が見逃されやすく、血を吐いてからはじめて古肺病と診断されることも少なくない。そして血を吐くまで症状が進行すると、治療は極めて難しくなる。それ故に、この古肺病は不治の病と言う者も多かった。
黒鉄も、初めは空咳が出るだけだった。だが、妻・秋穂からいくら言われても、病院嫌いだった黒鉄は医者にかかろうとしなかった。
そんな状況で、医者にかかるよう黒鉄を説得したのが、久世だった。本の虫である久世は医学書も多少読むらしく、古肺病の初期症状について一定の知識があった。
そうして判明した病は、黒鉄本人だけでなく、黒鉄組全体に暗雲をもたらすこととなったのだ。
久世は相馬が掲げた紙袋を訝しげに見つめる。
「そんなの迷信じゃない?」
「でも異国で見つかった新種の草らしいよ。もしかしたら効くかも」
久世は押し黙った。聞いたことがある草かどうか、改めて記憶を辿っているような、そんな表情だった。
すると、相馬の横に立つ帯刀が一歩前に出る。強面だが、このときばかりは目つきも口ぶりも、久世の警戒心を解くように柔らかかった。
「別にこれは薬じゃない。乾燥させて煎じて飲めば、少し症状が緩和される、その程度のものだ」
「まあ、そうだよね」
「それなら、別に飲ませてみてもいいんじゃないか。気休めといえばそれまでだが」
久世は躊躇ったあと、相馬から紙袋を受け取った。安堵したのか、相馬は頬を僅かに緩ませた。
すると、帯刀が低い声で訊ねる。
「それより池端先生の治療はどうなんだ? 効果は期待できるのか?」
久世は押し黙った。
古肺病は血を吐くまで症状が進行すると、人への感染力が高まると言われていた。黒鉄は万が一の事態を防ぐため、自分と対面できる者を妻の秋穂と若頭の久世だけにすると決めた。黒鉄の症状が進行する前に二人は予防接種を受け、三カ月前から隔離された寝室で過ごす黒鉄を訪ね、看病をしている。
そんな隔離生活が始まる前、黒鉄は「啓思には内緒だぞ」とひと言添えてから、猿丸を晩酌に誘った。いままさに猿丸がいるこの縁側で酒を呑み交わしたのだが、そのとき黒鉄はこんな言葉をこぼした。
──お前と久世がいれば、黒鉄組は安泰だ。
思い出した途端、猿丸の瞳が僅かに揺れた。あれから三カ月、この言葉を忘れた夜は一度たりともない。猿丸には、あの言葉が黒鉄の覚悟のように感じられた。それは「俺の身がここで朽ちようとも、黒鉄組の意志はお前たちが継げ」という、一代でこの組をここまでのし上げた英傑からの信頼そのものだった。
「池端先生は、頑張ってくれてるよ」
久世はふんわりと言葉を濁した。症状は悪化しているのか、快方に向かっているのか。その言葉だけでは判断が難しいが、猿丸にはわかった。久世がこういう言い方をするときは、大抵悪い方に物事が進んでいる。つまり、黒鉄の症状は芳しくないのだ。
相馬は静かに言葉を続ける。
「親父と話せたら伝えてよ。あんたが怒鳴ってくれないと、俺やる気出ないんだって」
久世は小さく笑った。
「約束する」
相馬は頷くと、帯刀とともにその場を去って行った。
二人の背中が遠くなったのを見計らって、猿丸は口を開く。
「……相馬は親父に会わせてもいいんじゃねえか」
「え?」
「一応、若頭補佐なんだからよ」
猿丸の言葉に、久世は困ったような表情を浮かべた。
相馬は若頭補佐で、組の序列では久世に次ぐ立場にある。だが、久世はどうやら、彼のことも極力、黒鉄に会わせたくないらしい。
「あの二人さ、ちょくちょくこうやって僕や秋穂さんにいろいろ身体に良さそうなものを渡してくれるんだ。でも、会わせるのは流石にね。相馬は予防接種も受けてないから」
「……ってことは」
「ん?」
「血を吐いたのか。親父は」
意を決して、猿丸は訊ねた。予防接種という言葉が出たということは、いまの黒鉄に会えば、感染する可能性がある──つまり、血を吐くまで症状が進行しているということだ。
うっすらと、そうではないかと思っていた。だが、真正面から受け止めることができずにいた。それでも、いつまでも目を逸らし続けるわけにはいかない。猿丸は久世を見る目に力を込める。
だが、久世はどういうわけか、猿丸に向き直るなり柔らかく笑った。
「心配いらない。僕に任せて」
猿丸は眉をひそめた。問いの答えになっていないし、どうして笑うことができるのか。
「お前なァ、ちゃんと──」
答えろ、と言いかけたまさにそのとき、西日の先からひとつの影がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。影は手を挙げ、指先に摘んだ手紙をひらひらとさせる。
「兄貴ィ~~! 来たっス、来たっス! 宵狐からの返事っス!」
源次だ。
実は西道の事件があった日の夜、猿丸と久世は相談して、源次と一郎にはすべての事情を話すことに決めた。表立って外出ができない自分たちの代わりに、足となってもらいたかったのだ。
源次が来るなり、猿丸は源次の坊主頭をぺちんと軽く叩いた。
「あいてっ」
「声がでけえっての。例の件は四人だけの秘密だ。他の連中にバレたらどうすんだ」
「すんません。でも俺、手紙が届くところを、誰にも見られるわけにいかないっスから、ずっと見張ってたんスよ」
猿丸はしょんぼりする源次の肩を抱き、坊主頭を少し乱暴に撫でる。
「そうだった。いやあ~助かったぜ、ほんと」
「へへへ」
「んじゃあ源次、狐ちゃんからの返事を聞かせてくれねえか」
「へい」
源次はおもむろに封筒に手をかける。だが、ふと顔を上げて久世を見つめた。
「久世さん? 大丈夫っスか?」
猿丸も久世を見やる。久世は「ああ」と小さく呟くと、あっけらかんと笑った。
「ごめん、ごめん。何でもないよ」
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源次の武骨な指が、そっと封筒を千切っていく。そんな中、久世は猿丸の横顔を見つめていた。茜色に照らされたその勇ましい横顔には、どことなく組長──黒鉄の面影があった。久世は微笑むと、心で静かに呟いた。
──ごめんね、猿くん。もう少しだから。




