第13話 束の間の安寧
障子を透かした柔らかな陽光が、朔夜の瞼をそっと照らす。朔夜はその光に誘われるように、ゆっくりと目を開けた。
むくりと起き上がり、周囲を見渡すと、そこは八畳ほどの和室だった。布団の横には二つの座椅子があり、その間に木製の円卓が置かれている。円卓上の水差しとコップを見ながら、そういえばどうにか宿に帰ってきたのだったと思い返した。
朔夜は水差しに手を伸ばし、コップに水を注ぐ。そしてそれを飲み干すなり、もう一杯水を注いだ。そのとき、小さな音を立てて襖がゆっくりと開く。そこに立っていたのは、桃色の浴衣に身を包み、肩ほどまでの白髪をひとつにまとめた少女──環だった。
「おはよう! 朔夜」
「おはよう」
「気分はどう?」
「喉カラカラ」
朔夜はそう言うなり、コップの水を再び勢いよく飲み干した。環は室内に入ってそっと襖を閉めると、神妙な面持ちで朔夜の前に座る。
「朔夜ね、二日近く寝てたんだよ」
「……二日も?」
朔夜は目を丸くした。呪印の炎を浴びて、相当体力を消耗してしまったらしい。そういえば、宿に帰る少し前からどことなく熱っぽかった気がする。
「右腕、見せて」
環が静かに言う。
朔夜はコップを置いて、寝間着の袖をそっとまくった。腕には、まだ赤黒い痕がくっきりと、痛々しく残っていた。
「その火傷、一昨日も昨日も治療したんだけど、完全には治せなかったんだ。痛みは?」
「ほとんどないよ。もう大丈夫」
環は朔夜の言葉に頷くと、その腕に視線を落とした。そっと掴み、集中する前の儀式のように、ゆっくりと大きく息を吸う。
次の瞬間、環の指先からじんわりと光が滲みはじめた。光は輝きを放ちながら風船のように膨らむと、腕から離れ、いくつもの玉となって朔夜の腕のまわりをふわふわと漂いはじめた。光の玉は互いにぶつかり合い、焚き火のようにぱちぱちと爆ぜた。
朔夜はそっと、環を見上げた。“治癒”をしている環の表情は真剣そのもの。瞬きひとつすることなく、その視線は真っ直ぐ、朔夜の右腕──火傷に注がれていた。彼女の頬に、一筋の汗が伝う。それが雫となって落ちた瞬間、環は肩の荷を下ろすように息を吐き、光の玉を消した。そしてぐったりと、円卓に突っ伏した。
「大丈夫? 環」
朔夜の呼びかけに、環は「平気平気」と笑顔で応じた。
「どう? 火傷」
朔夜は自らの右腕を見やる。くっきりと残っていた赤黒い痕は、跡形もなく消えていた。それを確認するなり、環は「良かった」と呟いて、にっこりと微笑んだ。
これが環の“治癒”の力。藍邑家・本家の血を引く者だけが継承できる、唯一無二の力だった。
環と朔夜は従妹同士。環は藍邑家・本家の人間で、朔夜は分家。だが、生まれた年が同じこともあって、二人は双子のような関係だった。そして、顔が似ているからこそ、あの夜のような作戦も実行に移すことができたのだ。
「影武者のこと憲衛隊にバレなかった? 身体検査もされたんでしょ?」
「うん、大丈夫だった。それより、朔夜の話を聞かせて。呪印持ちの極道と会ったって本当なの?」
朔夜は頷き、黒鉄組の追手と一戦を交えたことを端的に伝えた。すると、環の顔がみるみると強張っていく。
「本当にいたんだね、呪印持ち。それも、よりにもよって、極道の人間が持ってるなんて……」
少し考えて、朔夜は静かに口を開いた。
「わからないの。極道が……それも呪印持ちが西道の護衛につくなんて。元最高審問官の西道は、極道と対極にいるはずなのに」
「その理由、わかったかもしれません」
低い声が響いて、朔夜と環は揃って襖に視線を向けた。やがて襖が開き、月影の座長──東風が姿を現した。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「どうですか? 呪印の火傷は」
「もう治った」
朔夜は即答し、自らの右腕を東風に見せた。東風はほっと胸を撫で下ろし、笑みを浮かべた。そして、朔夜と環から少し離れた畳に腰を下ろした。僅かに開いた襖から生ぬるい風が吹き抜け、彼の長い銀髪をさらりと揺らしている。
「例の黒鉄組……相当金に困っているようです」
「金?」
思わぬ言葉に、朔夜は眉をひそめる。
「組長が大病のようです。今日、雪菜が黒鉄組を張っていたところ、商人風の男が裏口から出てきたそうです。怪しいと思って後をつけてみると、男は池端医院へと戻り、そのまま白衣を羽織っていたとか」
──白衣?
朔夜が問い返す前に、環が声を上げる。
「医院ということは、その池端という人は医者ですか? わざわざ商人に化けて、黒鉄組へ?」
東風が頷く。
「この天原では、黒鉄組のような極道の勢力が三つ、しのぎを削っています。敵勢力に組長が病に臥せっていると悟られたくなくて、そのようにしているのでしょう。さらに雪菜が言うには、黒鉄組は現在、下っ端から上層部までひっきりなしに仕事をしているそうです。それこそ、なりふり構わずに。だからこそ、西道の護衛も引き受けたのでしょう。そこまでして金を稼ぐ理由……彼らの精神的支柱ともいえる組長の病を治療するためだと考えれば辻褄が合います」
ここまで聞いて、朔夜は小さく笑った。月影の中では、雪菜の情報収集力はずば抜けていた。彼女がここまで調べ上げたなら、黒鉄組の組長が病に臥せっているのは間違いないのだろう。
「考えてみれば、あの西道が憲衛隊に護衛を依頼するはずがありませんからね」
東風はそう吐き捨てるように言った。朔夜も同意だった。
これまで西道がしてきたことを考えれば、宵狐に狙われているとしても、奴が憲衛隊に護衛を依頼できるわけがない。依頼をすれば、なぜ狙われるのか、詳しい事情を話さなければならないからだ。それは、西道にとって自らの首を絞める行為に他ならない。
朔夜は表情を引き締め、東風に向き直った。
「これからどうする? 黒鉄組が西道の護衛についているなら、作戦を練り直さないと」
「そのことなのですが、少々厄介なことになりました」
「厄介?」
「今朝、宿に手紙が届いたようでして」
東風は着物の懐からおもむろに一通の封筒を取り出した。封筒の表には、筆文字で「月影花形、朔夜殿」と記されている。
東風は神妙な面持ちで、こう言葉を続けた。
「差出人は黒鉄組の猿丸赤也。どうやら、朔夜の正体に勘づいているようです」




