第12話 あたたかな手
朔夜は足音を忍ばせながら、なるべく人通りが少ない路地裏をゆっくりと歩いていた。
走れたのは凛名館を離れてからの、ほんの短い距離だけで、それからは足を引きずるように歩くしかなかった。呪印の炎は普通の炎と違うのか、経験したことがない痛みが刺すように続いていた。
次第に身体も震え始める。どうやら、熱が出ているらしい。朔夜はふらつく足取りで、ふと前を見た。月影が泊まっている宿はすぐ目の前だった。朔夜は安堵して、どうにか宿の裏口へと回る。そうして、合図である五・三・一の数を、間隔を開けて叩いた。瞬時に扉が開き、男の手が伸びる。朔夜はその腕に、そっと身を任せた。
「環を呼んでください! 早く!」
うっすらと目を開けると、艶やかな銀髪が飛び込んできた。すべてを包み込むような力強い腕と、柔らかな声色。この声は東風だ。自分のことが気がかりで、ずっと裏口で待っていてくれたのだろうと、朔夜は思った。
東風は朔夜の右腕を見るなり、息を呑んだ。
「ただの火傷ではない……。これはいったい、どうしたのですか?」
朔夜は答えることができなかった。痛みで声が出なかったのだ。それに、熱と疲労で額にはじっとりと汗が滲んでいた。それを察したのか、踊り子である沙世が平たい土色の器に水を入れて東風に手渡す。東風はそっと、器を朔夜の口元につけた。
「飲めますか? ゆっくり」
朔夜は左手で器を支えながら、どうにか水を口に含んだ。冷たい水が、すっと喉を伝っていく。
東風は朔夜が水を飲み込むのに合わせて、ゆっくりと器を傾けていく。朔夜は一滴たりとも零さないように気をつけながら、すべての水を飲み干した。
東風はすかさず、器を沙世に手渡す。
「もう一杯お願いします。あと、水差しも」
「はい!」
沙世は器を受け取るなり、足早に去って行った。朔夜は小さく咳込んで、ようやく言葉を絞り出す。
「ごめ……東風。わたし……」
──しくじった。
言葉は続かず、朔夜は再び咳込んでしまった。だが、東風は首を横に振った。どうやら、すでにある程度の状況を理解しているようだった。
「計算外でした。まさか、あの二人が西道の護衛についていたとは」
「知ってるの? 奴らのこと……」
「黒鉄組です」
「黒鉄組?」
東風は布で朔夜の汗を拭いながら、言葉を続ける。
「天原で有名な極道です。あなたに銃を撃ったのは若頭の久世啓思。刀を持っていたのは猿丸赤也。二人とも、組長が極めて信頼を寄せる数少ない側近と聞いたことがあります」
「久世と猿丸……」
朔夜はそっと目を閉じる。瞼の裏には、自分に銃口を向ける久世と、刀の切っ先を向ける猿丸がありありと映し出された。
「どうして極道があの場に? 西道と何の関わりが?」
水差しを持ち、戻ってきた沙世が東風に問いかける。
東風は少し間を置いて「そこまでは」と呟いた。どうやら、彼もなぜ黒鉄組が西道の護衛をしていたのかわからないらしい。
朔夜はぎこちなく首を曲げ、東風を見上げる。水を飲んだおかげで、先ほどよりも大分声が出しやすくなっていた。
「西道の両脇にも護衛らしき男が二人いたよ。そいつらも黒鉄組?」
「そうでしょうね、おそらく」
朔夜は悪態をつき、東風を正視する。
「どうする? これからはもっと警戒される。黒鉄組……というかあの黒髪、相当手強い」
「猿丸ですか?」
朔夜は頷く。
「あいつ、呪印持ちだ」
その言葉が放たれた瞬間、東風の目がぎらりと光った。沙世も動揺したのか、手をそわそわとさせる。
「まさか……だから逃げなかったのですか」
朔夜は唇を引き締めた。あのときはただ、ずっと探し求めていた呪印の秘密を少しでも知りたい。その一心だった。だが、東風の眼差しには、呪印を追い求めるのは許さないという強い意志が滲んでいた。実はこの東風は、朔夜が呪印を探すことを、ずっと快く思っていないのだ。
「馬鹿なことを」
朔夜は目を逸らした。余計なことを言ってしまった。そう思った途端、視界が眩んだ。皆のもとへ戻ってこられて安心したのか、疲労感が一気に押し寄せてきたのだ。
「朔夜? 朔夜!」
そのとき、パタパタと足音が聞こえた。
「わたしが診ます! 朔夜、しっかり!」
意識が朦朧とするなか、朔夜はうっすらと目を開けた。霞みゆく視界のなかで、細く白い指が、自分の右腕にそっと触れた。じんわりとした心地よい温かさに包まれながら、朔夜はそっと瞳を閉じた。




