7 ふたりの少女
「……そうか、そんなことが」
朱音は全て話してくれた。自身のこと、そして、紗久弥だった頃のエマのこと。
「エマには、サクヤだった頃の記憶は、一切無いのか?」
「正直なところ、それはわかんねー」朱音はため息を吐いた。「医者に診てもらえば何か分かるのかもしれないけど、その辺の病院に連れて行く訳にもいかないし」
少しの間、沈黙が流れた。何か声を掛けたかったが、何を言っても、気休めにしかならないだろう。
「すまん、なんて言ったらいいか……」
「何も言う必要はねーよ」ずっと月を見上げていた朱音が、俺の方を見て言った。「この前、駅で襲ってきた、右腕が刃になる男のこと、覚えてるだろ?」
「ああ」
「ヒロキは、あの男を見た時、どう思った?」
そこで朱音は、言葉を切って息を呑み、もう一度口を開いた。
「あの男は――人間だと思うか?」
その言葉に、俺は即答することが出来なかった。
「あの男の右腕と、エマの右腕は……多分、原因は同じだと思う」
男の右腕の刃と、エマの右腕の刃――そのふたつを見てしまった後では、そこに類似性を見出さない方が難しい。そして、あの男を人間ではないと認識することは、エマも人間ではないと認識することと同義だ。
「ふっ……こんな話、信じるヤツがいると思うか?」朱音は悲しそうに自嘲した。「変な服装をしたやつが、〝朱き翼〟なんて名乗ってさあ。槍を振り回して、世界の裏側で悪と戦ってるんだって……そんなことを、マジな顔して言ってるヤツの話をさ……」
朱音の声は震え始めていた。彼女は大きく深呼吸をして、夜空を見上げた。
「でも、〝そういう設定〟にしとかねーと、アタシとエマは釣り合わねーんだよ。アタシの方が現実離れした設定にしとかないと……どう考えたって、エマはこの世界から浮いた存在になっちまう。あの男みたいにな……」
朱音は目を閉じて言った。「なあ、ヒロキ……エマは、人間だと思うか?」
「すまん、俺には、分からない……」
俺の返事に、月を見上げていた朱音は、ゆっくりと足元へと目を落とし、「だよな」と呟いた。
「アタシだって分かんねーよ。アタシだって誰かに教えてもらいてーよ。〝エマは人間だ〟って、言ってくれる誰かが欲しかったよ」
朱音の中に滞留していた言葉が、洪水のように吐き出されていく。
「そんでそいつに、〝本当はどうすればよかったんだ?〟って聞きてーよ……でも、そんなヤツは居ない。少なくとも、それを教えてくれそうだった人たちは、みんな死んだ」
まくしたてるように、早口でそう言ってから、朱音は大きく息を吸った。それから、朱音は静かに、ぽつぽつと話し始めた。
「だから、自分で考えるしかなかったんだ……アタシは〝そういう設定〟にすることくらいしか、思いつかなかった。エマは〝そういう設定〟で、アタシと一緒に戦ってる一人の女の子なんだって……そう考えでもしないと、なんていうかもう、アタシの頭の方が先に、どうにかなりそうなんだよ……」
朱音は、両手の平を自身の顔の前へ持ってきて、それをじっと見つめた。
「毎朝目が覚めて、エマの顔を見る時……考えるんだ。今日こそは、エマじゃなかった時のことを――サクヤだった頃の記憶を、以前のアタシを、思い出すんじゃないかって」
朱音は両手を握りしめ、目を閉じた。
「その答えは、話さなくたって顔を見ればすぐに分かる……エマになってから今日まで、アイツがエマじゃない日は、無かったよ。一秒たりともな。その事実を毎日つきつけられて……なんていうか、すごく悲しいけど、でも少しほっとするんだ。エマになってから、アタシと一緒に過ごした記憶は、まだあるんだなって」
朱音は再び目を開いたが、その焦点は虚空に合わせられている。
「サクヤの記憶は戻って欲しいけど、エマの記憶も消えて欲しく無い……そういう都合の良いことを考えてる自分に、正直一番イライラする。でも……怖いんだよ。アタシと過ごした記憶が、またアイツの中から消えたら――エマ自身のことも、そしてサクヤのことも……アタシ以外の誰の記憶にも残らないことになる。それって、アタシ以外の人にとっちゃ、〝存在しない〟のと一緒じゃねーか」
虚空を見ていた朱音の目に、僅かにに意志の光が宿る。
「だから、サクヤと過ごした記憶を、アタシは絶対に忘れない。じゃないと、この世から消えちまうんだ……アタシが、覚えてなくちゃいけないんだ」
そこで朱音は突然、はっとした表情で俺の方を見た。
「……って思ってたけど、あれ? よくよく考えたら、たった今、楠原に話したから、セーフかこれ?」
いまだに朱音は呆然とした表情のまま、握っていた両手を開いて、それをぼんやりと見つめ始めた。
「こんなこと、今まで誰にも話したこと無かったな……まあ、話したとしても、〝そういう設定〟ってことにされちまうかもしれねーけど」
「あーあ!」朱音は両手を振り上げながら、その勢いのままに後ろに倒れた。「ままならねーよな、人生って」
「……話してくれてありがとう、朱音」
朱音にとっても、そう簡単に口にできることでは無かっただろう。むしろ、かなりの勇気が必要だった筈だ。
「気にするな。アタシも、ヒロキになら話しても良いと思ったんだ」
そう言って、朱音は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「ふぁあ……アタシは流石に眠いな」
「あとは俺が見張りをするから、朱音は寝てろよ」
「そうだな」朱音は両手を振りかぶって、その勢いで身体を起こした。「じゃ、あとは頼んだぞ」
「ああ、おやすみ、朱音」
朱音は立ち上がると、左手をひらひらさせながら客間の中へ入っていった。
俺は朱音が先ほどそうしていたように、縁側に座って月を眺めた。
朱音にとって、親しい友人であったサクヤ。その肉体は同じでも、違う記憶、違う人格を有しているエマ。
どうして朱音があそこまでエマを気に掛けるのか、その理由が分かった。朱音にとって、あの少女は、守るべき対象である少女エマであり、そして、孤独から救ってくれた憧れの少女サクヤでもあるのだ。
双方の記憶の中に、それぞれの朱音の姿がある。そして、そんなエマとサクヤの間で、朱音はもがき続けてきた。
俺は、今の朱音にしてやれることをしよう。月を見上げながら、そう思った。




