17ー1 憧憬との対峙
右側から温かさを感じて、俺は目を開いた。
「ここ、は……」頭を上げて周囲を見回す。上質そうな木製のテーブルがいくつも並べられ、それらは温かなオレンジ色の光に照らされている。
――ここは、あのケーキ屋の中だ。俺とそらのと翔、3人で過ごした思い出の場所。そらのとの別れの起点となった場所。
どのテーブルにも、誰も座っていない。店員も、客も、誰ひとりとして存在しない。入口の方を振り返ってみるが、やはり誰の姿も無かった。
「あ、ヒロくん、やっと目が覚めた?」突然声が聞こえて、俺は思わず椅子から立ち上がり身構えた。
向かい側の座席に、そらのが座っていた。先程まで、座席には誰も居なかったような気がしたのだが。
「どうしたの? ヒロくん」
「そらの……お前……」
「ふふ、ヒロくんは相変わらず、居眠り星人だなぁ。ケーキもまだ残ってるよ?」
テーブルの上を見ると、確かに食べかけのショートケーキがある。先程まで、テーブルの上には何も無かったような気がしたのだが。
それだけではない。その横にはティーカップが置かれており、注がれた紅茶からは湯気が立ち上っている。
――もしかしたら、俺は本当に、居眠りをしていたのかもしれない。
ゆっくりと椅子に手をかけて、俺はそこに座った。どこか遠くで、子供たちの声が聞こえる。紅茶の良い匂いがした。
「ほら、早く食べて」
「あ、ああ……」
俺はショートケーキの載った皿に置かれたフォークを手にとって、ゆっくりとケーキに差し込んでいく。そしてすくい取ったケーキを口の中に運ぶ。
「……甘い」
上品な甘さが、口の中に広がっていく。口の中にクリームが溶けていく感覚、甘いという感覚。それを感じられることが、何故かとても嬉しかった。俺はそれを何度も確かめるように、ゆっくりとその甘さを味わう。
「ヒロくん……なんで泣いてるの?」
「え?」そらのに言われて、俺は右目の辺りを指で撫でる。目の前にやると、指先が濡れていた。
「あれ、どうして……」
「何か、嫌な夢を見たの?」
そらのは心配そうな顔で俺の顔を覗き込む。そして、ハンカチを取り出して、それを俺の顔に優しく当てた。きめ細やかな絹が頬の上を滑る感覚が、心地よかった。
「わからない……けど、なんでかな、今、凄く嬉しかったんだ」
窓から差し込んでくる光の温かさ。目に映る鮮やかなオレンジ色。遠くから聞こえる街の音。自分の気持ちを声に出せること。自分の身体を自由に動かせること。感じられること全てが、本当に嬉しい。
「そっか」
そらのはハンカチで俺の涙を拭き取ると、それをテーブルの上に置いた。
「ヒロくんは、いろんな辛いことに耐えてきたんだよね。自分を傷つけて……皆のためにいろんな物を失って、苦しいことを乗り越えて来たんだよね」
そらのの表情が次第に曇っていく。
「でも、どうして、ヒロくんがそんなに辛い思いをしなくちゃいけないのかな」
「そらの……」
「だって、ここまで頑張ってきたんだよ。自分を責め続けて、苦しい思いを背負ってきたんだよ」
そらのは、テーブルの上に置かれた俺の手を両手でそっと握りしめた。
「ヒロくんは、充分過ぎるくらいに頑張ったと思う。だから、もうこれ以上、苦しくならなくたって、いいんだよ」
「ああ……」
俺は、誰かにそう言って欲しかったんだ、と思った。
誰かに許して欲しかった。そのために自分を傷つけ、危険な道を選んだ。痛みや苦しみの多い場所へ、自ら入っていった。それを我慢し続けていれば、いつか誰かが許してくれるんじゃないか。もうそんなことはやめていいと、忘れてしまってもいいと、誰かにそう言ってもらえるのを、俺はずっと待っていたんだ。
――背後から、音がした。
振り返ると、相変わらず誰もそこには居ない。ケーキを買うためのカウンターと、出入り口のドアだけだ。何だろう、今の音は。俺は立ち上がり、出入り口の方へ近づこうとした。
「ここから出たら、また辛い目にあうよ」そらのは抑揚の無い声でそう言った。俺は足を止めて、そらのの方を振り返った。
「温かい光、鮮やかな色、心地よい音――それをまた、失うことになるかもしれないんだよ。また、苦しい思いをすることになるかもしれないんだよ」
そうだ。もう苦しいのは嫌だ。何かを奪われるのは嫌だ。
「……キ」また背後から音がする。出入り口のドアだ。ドアを、誰かが叩いている。
「外の世界は、ヒロくんから、また奪おうとしてるんだよ。そんな危ない世界に、出なくたっていいんだよ」
「ヒロ……、……ロキ」
まただ。今度は、ドアを叩く音に加えて、少女の声が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある声だった。俺は声の方を振り返る。
「……ヒロ……! ……キ!」
俺はドアの方へ一歩踏み出す。
「ヒロくん! いいの!?」
背後でそらのが乱暴に立ち上がる音が聞こえた。「また辛い目にあっても! また痛い思いをしても!」
わかっている。外に出ればまた、あの場所に戻ってしまう。
――それでも、少女の声を無視することは出来ない。
自分でも理由はわからないが、そう強く感じた。俺はまた、ドアの方へ一歩近づく。
「ヒロキ!」はっきりと、少女の声が聞こえた――レイナの声が。
「レイナ……!」
その名を口にした途端、俺は駆け出していた。レイナが、俺を呼んでいる。
ドアのすぐ前まで近づくと、レイナの声も、ドアが叩かれる音も消えた。ドアの上につけられたガラスの窓から、外を覗こうとした。だが、ただ真っ白な光が、強く差し込んでいるだけで、レイナの姿は見えない。俺はドアを開こうと強く押してみたが、微動だにしなかった。
「レイナ!」レイナの名を呼んでも、返事は無かった。
俺は右手でドアを何度も叩いた。だが、向こうからドアは叩かれることは無かった。
「くそ!」
俺は両腕をドアに強く叩きつけた。その直後、衣擦れの音がして、背後に気配を感じた。
「ヒロくん、どうして外に行くの? まだ、頑張らなくちゃいけないの?」
振り返らずに、そらのの声に俺は答える。
「痛いのも、苦しいのも嫌だ。俺だって、こうして、そらのとずっと一緒に居られたらって、何度も思った」
俺は頭を下げ、額をドアに押し付けた。「でも、俺を呼んでくれてる人がいるんだ。それに、知らなきゃいけないことが残ってる。だから、俺は……行かなくちゃならないんだ」
俺は目を閉じ、祈りと、懺悔を込めて言った。「そらの、ごめんな」
背後の気配はしばらく何も言わなかった。遠ざかることも無かった。
「そっか」やがてささやくような声が聞こえて、ふわりと、背中に柔らかなものを感じた。そして、温かな手が、後ろから俺を包んだ。
「ヒロくんなら、まだ頑張れるよ」
すぐ耳元で、そらのの声がした。
「そら――」振り返ると、そこには誰も居なかった。
背中に感じた温かな感覚が、急速に消えていく。
遠くから聞こえていた喧騒も、もう聞こえなくなっていた。
ここにはもう、誰も居ない。
俺は再びドアに向き合う。両手をドアにつけ、低い姿勢になる。
「くっ……!」
両腕に力を込めて、俺はドアを押した。
「おら…ぁ…!」
ドアは相変わらずびくともしない。だが、俺は押し続けた。
「うおおぉぉ!」
確かな手応えがあった。閉じられていたドアと木枠の間に僅かに出来た隙間から、強い光が差し込んでくる。その間にも、ドアの重さが両腕に伝わってくる。それに押し戻されないようにしながら、俺は押し続けた。
押し続けるんだ。もっと、強く――。
「開けえぇぇぇ!」
視界が光で満たされていく。地面も、壁も、両腕も。そして、全てが光で満たされた。




