16ー10 発現者
「ぐっ……!!」
注射の痛みにも似た、針が刺さる感覚が一瞬だけあった。
「ぐああぁぁぁぁ!」次の瞬間、左のこめかみ付近に強い衝撃が走った。
「脳にはブローカ野と呼ばれる、言語を司る場所がある。ブロードマンの44野、45野とも呼ばれているね。それは君の場合、前頭葉の左側に存在する。まずはそこを壊してみよう」
皮膚が削られる痛みと、内部から伝わってくる骨の振動。左のこめかみから、頭の中に何かを強く押し込まれているような強い圧迫感。赤色の、緑色の、青色の、黒色の光が、激しく脳裏にきらめく。かつて正常だった意思の全てが、暴力的な概念で上書きされていく。
「ぐうううぅぅ!」俺は自分で何を言っているのかもわからなかった。ただただ与えられる衝撃からなんとか離れたい一心で何かを叫んだ。
「ヒロキ! ヒロキ!」レイナの絶叫が遠くから聞こえる。
それから、とてつもなく長い時間が経過したように思えた。気が付くと、ずっと鳴り響いていた甲高い機械音も、頭を抉る衝撃も、消えていた。
「はぁ、はぁ……」
左のこめかみから出血しているのだろう、痛みと共に液体が流れる感覚があった。レイナの方を見ると、両腕を抑えられているにも関わらず、身をよじり、こちらに来ようとしている。
――レイナ、危ないからそこでそのままじっとしていろ。
そう言おうとした。しかし――
「あー……じっと、レナイ、そこで……えー……あと、くろが……あれ……」
今のは、俺が言ったのか……?
何の整合性も無い、言葉の羅列。頭の中の考えを口に出そうとすると、途端にわからなくなってしまう。
「転置と置換が見られる音韻性錯誤非流暢性失語といったところか、あとは……」
黒田は何を言っている? 俺に何が起こっている?
「楠原くん、私の指を見たまえ」
黒田はそう言うと、右手の人差し指を立て、ゆっくりと左右に動かした。俺はその動きを目で追う。
「なるほど、聴覚的理解はまだ出来るようだね。ちなみに右半身はどうだね? 足や手を動かしてみなさい」
「っ……!」黒田に言われて、初めて気が付いた――右半身の感覚が、全く無い。
右手に力を入れているつもりなのに、俺の右手はピクリとも動かない。
「ど、て……」
(どうして、こんな目に遭っているんだ……。誰か、助けてくれ……レイナ……)
「れない……な、れい」
ダメだ。レイナの名前を呼ぶことさえ、ままならない。
「こんな……何の意味があるの……こんな実験に……」
レイナの言っている言葉の意味が、まだ理解出来るということが唯一の救いだった。
「意味ならあるさ」と黒田は言った。
「彼の失われた機能が回復すれば、折笠くんの開発したマイクロチップの成果が示されることになるのだからね。君の、医療に役立ちたいという思いが成就するんだ。夢のある話じゃないかね」
「こんなこと……」レイナの震えた声はそこで途絶えた。
「昔、ボードレールというフランスの詩人が居た。彼は四十五歳の時に脳卒中で倒れ、今の君と同じように言葉を上手く話せなくなってしまった。喜び、怒り、悲しみ、全ての感情を表現してきた豊かな語彙を持つ詩人は、皮肉なことに、収容された病院で、絶望の罵りを叫んでいたそうだ」
ARディスプレイの方を見ていた黒田は振り返り、俺の目を覗き込んだ。
「楠原くん、君がこの状況から回復すれば、そのプロセスを調べることで、その詩人のような人たちだって救えるかもしれない」
「う……ろだ……」
「さて、次は空間認知の限界に挑もう」黒田が再び画面の向こうで片手を挙げる。
再度、あの甲高い機械音が聞こえる。直後、後頭部に針が刺さる痛み。
「あ……」後頭部から、強く圧迫される感覚。
骨が削られて内側から振り回されるような振動の感覚。その衝撃に、目を閉じ、歯を食いしばった。
「心理学の言葉で視空間というものがある。視覚を通して知覚される空間的広がりのことだ。“見る”というのはただの感覚にすぎない。遠近、方向、形、奥行きなど、見る対象の各要素をすべて統括して認識するとき、初めて“知覚”したと言える」
頭が振動するたびに、左手と、左のこめかみが強く痛む。
「では、この各要素を認識する場所がひとつでも壊れたら、どうなるのかな?」
「グゥぅゥゥうウ……!」
ただただ、今行われていることが終わってくれることを祈った。
やがて、嵐が過ぎ去り、機械音が止んだ。
目を開いて、戦慄した――何だ、これは。
目に見える光景のすべてが、まるでキュビズムの絵画のように、直線的な線で区切られ、色分けされて、現実感が喪失していた。強烈な眩暈と吐き気が襲ってきた。
「どうかね、君の見ている世界は、今どうなっているかな?」歪んだ世界の中で黒田が満足気な表情をするのが見えた。
砕け散ってしまいそうな意識の中で浮かんだのは、一つの疑問だった。
――生きるのと、死ぬの、どちらが苦しいだろう。
「ふむ、ここまで追い詰めても、能力が発揮できないケースもあるということか。それはそれで興味深いがね」
指を奪われ、言葉を奪われ、空間感覚を奪われ――次は、何を奪われる?
「ハア……ハア……」息をするたびに気が遠くなっていく。
もはや、痛みなど問題では無かった。頭がおかしくなりそうだった。あるいは、もう正気ではないのか。目の前に広がる光景は、俺の心が作り出しているのか。
「安心したまえ」黒田の優しげな声が聞こえてきた。「生命維持能力は保たれるよう、細心の注意を払っている。次は……」
意識が遠のいていく中で、再びあの機械音が聞こえてくる。
もう、止めてくれ。もう、何も失いたくない。
「アアァああァァァ!」
声にならない声を上げ続ける。自分の上げる声を聞くことだけが唯一、現実世界に自分が存在することを確かめる術だった。
不意に、視界が黒く塗りつぶされた。不調をきたしたコンピューターが、突然シャットダウンしてしまったかのようだ。何の心構えも出来ず、突然それは奪われる。また、奪われたのだ。
次は何を奪われる? どこまで奪われ続ければ、これは終わる?
「ウアアァァアアァァ!」
俺はずっと叫び続けていた。
だが、やがて俺の声すらも聞こえなくなった。




