16ー8 発現者
「は……?」黒田は今、何と言った?
俺は葵さんが手にした器具を見た。それはペンチのような、2つの刃が交差する切断器具だ。だが、よく見るそれではなく、刃の部分がより長く、歪な曲線を描いている。葵さんは明らかに動揺した様子で、ペンチを握り締めながらも視線を彷徨わせている。
「心配しなくてもいい。君のような女性にも簡単に扱える代物だからね。それは」
そして黒田は手を俺の方へ伸ばし、葵さんを促す。「さあ」
「そんな…そんなこと……」葵さんは渡された器具を胸に強く押し付け、大きく首を横に振った。
「ふむ、出来ないのかね?」
葵さんの身体は震えていた。彼女は、必死で頭を左右に降るのが限界だった。
「そうか」黒田はひどくつまらなそうな顔をした。「私は君に機会を与えているに過ぎない」
「もし君が、大切な妹と二度と話をすることが出来なくても良いというのなら……」
「そんな、待って!」葵さんは黒田の言葉を遮り、すがるように言った。
「ハハハ、もちろん。いくらでも待つとも。時間はたっぷりある」
黒田は目を細めた。その目には、狂気と愉悦で満ちている。蜘蛛の巣に掛かった獲物を見る目だ。
「だが、そらのくんの記憶データには保存期限があるということを、忘れてはいないだろうね?」
「うぅ……」
「黒田! 黙れ!」俺の必死の叫びに、葵さんも黒田も答えなかった。
「私はどちらでも構わないよ。決めるのは君だ」
「ぐううぅ……」葵さんは青ざめた顔で、手にした器具を震える手で握りながら、それを見つめ続けていた。
――考えているのだ。
倫理の狭間の境界線上、その一線を踏み越えるか、否かを。
「葵さん! あいつの言うことに惑わされないでください! 今なら、まだ――」
そこで葵さんは俺に視線を向けた。その目には痛々しいほどの決意が宿っている。
「まだ、引き返せる……とでも言うの、裕樹」葵さんは低い声でそう言った。怨念の強さのあまり成仏も叶わぬ亡霊が発するような、病的な響きを伴っている。
「引き返して、だから何だというの。そらのの居ない世界に引き返して、私の人生に何が残るというのよ!」
葵さんは器具を握り締めて足早に俺のほうに向かってきた。
「葵さん!」
「止めて、アオイ!」レイナが懇願を叫びながら葵さんの背中を追いかけようとしたが、研究員たちがそれを抑えた。
「離して! いや! ヒロキ! アオイ!」
その声を背にしながら、葵さんは一切振り返らずに、俺の方へと歩いてくる。心臓が、別の生き物になったかのように胸の中でのたうち回る。上手く息が吸い込めない。鼓動が強すぎて、苦しい。
「葵さん、そんな……!」駄目だ。こんなこと、あって良いはずがない。葵さんから離れなければ――。
俺は自分の身体をストレッチャーからなんとか引き剥がそうと、縦へ横へと身体をよじった。ガタガタと言う音と、葵さんの足音だけが響く。
そして、葵さんは、固定された俺の左腕の前に立った。葵さんは強く歯を食いしばりながら、大きく息を吐いている。葵さんの口からは、唸り声のような音が定期的に発せられているだけで、その内容は言葉なのかすら定かでは無かった。
「あおいさ――」葵さんと名前を呼ぼうとして、俺は息を呑んだ。
葵さんの目。涙を流し続けるその目からは、一切の感情が消えていた。
本当に、葵さんは俺の指を――。
「さあて、楠原くん、君はどの指が良いと思うかね?」黒田はまるで余興の簡単な謎解きであるかのような軽さで、そう尋ねた。
「楠原くん、掌や指先の皮膚感覚は、薬指の中央を境に分かれていることを知っているかい?」
黒田はまたもや大学教授然とした態度で、人差し指を天井に向けて回した。
「つまり、手の神経を切断した後の回復過程を観察するには、薬指を使うのが最も面白い結果が得られそうだということだ」
それから黒田は葵さんの方を一瞥し「では葵くん、滞りなく実行してくれたまえ」とだけ言った。葵さんは言われるがまま、俺の左手を取ろうとする。
「やめて、ください……」俺の声は震えていた。恐怖と怒りが混ざり合って、どうにかなってしまいそうだった。こんなこと、どう考えてもあってはならない。一刻も早く、止めないといけない。
俺は固定されている左手の指を必死に動かして、逃れようとした。だが、そんな抵抗は意味もなく、葵さんは俺の左薬指の先を片手で握った。葵さんの手は、恐ろしく冷たい。彼女の指がかすかに震えているのが伝わってくる。
――そして、左薬指の付け根に冷たい刃先が当たる。
「ング、アァ、ハッ……ハァッ……!」
寒い。身体中が震えている。葵さんの手と、当てられた刃先から伝わる冷たさが、身体全体に広がっていく。
なんで、こんなことになっているんだ?
歯と歯が震えて、カタカタと頭の中で音を立てている。
加えて、寒いはずなのに、額からは汗が流れる感覚があった。
「フゥ、フ、ゥ……」葵さんの呼吸は不規則で、荒々しいものになっていた。それは恐怖を抑えるためか、狂気に飲み込まれまいと抵抗しているためか。
「アオイ! お願い止めて!」レイナの絶叫も、自らの感情も、全てをシャットアウトするように、葵さんは固く瞳を閉じた。
「裕樹、ごめんね……」その声はひときわ優しく、震えていた。
葵さんはそれだけ呟いて、切断器具を持つ手に力を――
「葵さん、待って――」
俺の思考は痛みで塗りつぶされた。
「グあァァアぁぁぁぁ!」
痛みの波が左薬指から身体全体へと急速に広がり、俺は咆哮した。
「ギゥ、ウウゥぅぅぅ! ハァ、はァ、アァ!」
次の瞬間、何か金属製のものが地面に落ちるコーンという音が響いて、暴力的な概念に支配されていた俺の意識の一部が解放された。
「ひ……ひ……!」その音は辛うじて葵さんから発せられているものだと分かった。うまく呼吸ができていないのか、奇妙な音が葵さんの喉の中で鳴っている。葵さんの声はやがて切迫したものへと変わっていく。
「ひぃ、く、くく……あぁ、は、は……!」呼吸が上手くできていないのかもしれない。
「おめでとう、葵くん」黒田の愉快そうな声が耳に響いた。「君は困難な選択と実行に耐え、理想へと一歩踏み出したのだ」
「あぁ……は、く……」葵さんの呼吸は徐々に弱々しいものになっていった。一方俺は、身体中の感覚がなくなり、今まさに意識がチカチカと点滅しかけていた。
「君の友人の指1本を犠牲にして、大切な妹が君の元に帰ってくるのだから、安いものだ、ハハハ!」
「ヒロキ! 誰か! 早く止血して!」レイナの叫ぶ声。
「アァぁ……」頭の中でいくつもの火花が次々に弾けていく。視界がぼやけては鮮明になり、白みがかっては色が戻りを繰り返す。左手の感覚は痛みを通り過ぎ、もはや熱さ以外の何も感じなくなっていた。
「葵、さん……」
葵さんは地面にしゃがみこみ、両手で頭を抑えていた。その両手は大きく震え、目は焦点が合っていない。その足元には血のついた器具が落とされていた。
そうか、俺は、本当に、指を――。
「く、うっく、は、は……」葵さんは、小刻みに引きつけのような嗚咽を漏らしながら、言葉にならない声を出している。
「はは、さすがに刺激が強かったようだね」黒田はそう言うと、指をパチンと鳴らした。「諸君、葵くんを別室に案内したまえ」
黒田の声に従い、研究員たちが半ば強引に葵さんの両脇を抱える。
「うぅ……葵、さん……」
辛うじて絞り出すことのできた掠れた声に、葵さんは返事をすることはなかった。そして、研究員たちに連れられて扉の向こうに姿を消した。




