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【本編完結済】Memory's Dogma - 記憶をデータ化できる2030年の日本で巻き起こる脳科学×異能サスペンス  作者: 高橋ワタル
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16ー8 発現者

「は……?」黒田は今、何と言った?


 俺は葵さんが手にした器具を見た。それはペンチのような、2つの刃が交差する切断器具だ。だが、よく見るそれではなく、刃の部分がより長く、歪な曲線を描いている。葵さんは明らかに動揺した様子で、ペンチを握り締めながらも視線を彷徨わせている。


「心配しなくてもいい。君のような女性にも簡単に扱える代物だからね。それは」


 そして黒田は手を俺の方へ伸ばし、葵さんを促す。「さあ」


「そんな…そんなこと……」葵さんは渡された器具を胸に強く押し付け、大きく首を横に振った。


「ふむ、出来ないのかね?」


 葵さんの身体は震えていた。彼女は、必死で頭を左右に降るのが限界だった。


「そうか」黒田はひどくつまらなそうな顔をした。「私は君に機会を与えているに過ぎない」


「もし君が、大切な妹と二度と話をすることが出来なくても良いというのなら……」


「そんな、待って!」葵さんは黒田の言葉を遮り、すがるように言った。


「ハハハ、もちろん。いくらでも待つとも。時間はたっぷりある」


 黒田は目を細めた。その目には、狂気と愉悦で満ちている。蜘蛛の巣に掛かった獲物を見る目だ。


「だが、そらのくんの記憶データには保存期限があるということを、忘れてはいないだろうね?」


「うぅ……」


「黒田! 黙れ!」俺の必死の叫びに、葵さんも黒田も答えなかった。


「私はどちらでも構わないよ。決めるのは君だ」


「ぐううぅ……」葵さんは青ざめた顔で、手にした器具を震える手で握りながら、それを見つめ続けていた。


――考えているのだ。


 倫理の狭間の境界線上、その一線を踏み越えるか、否かを。


「葵さん! あいつの言うことに惑わされないでください! 今なら、まだ――」


 そこで葵さんは俺に視線を向けた。その目には痛々しいほどの決意が宿っている。


「まだ、引き返せる……とでも言うの、裕樹」葵さんは低い声でそう言った。怨念の強さのあまり成仏も叶わぬ亡霊が発するような、病的な響きを伴っている。


「引き返して、だから何だというの。そらのの居ない世界に引き返して、私の人生に何が残るというのよ!」


 葵さんは器具を握り締めて足早に俺のほうに向かってきた。


「葵さん!」


「止めて、アオイ!」レイナが懇願を叫びながら葵さんの背中を追いかけようとしたが、研究員たちがそれを抑えた。


「離して! いや! ヒロキ! アオイ!」


 その声を背にしながら、葵さんは一切振り返らずに、俺の方へと歩いてくる。心臓が、別の生き物になったかのように胸の中でのたうち回る。上手く息が吸い込めない。鼓動が強すぎて、苦しい。


「葵さん、そんな……!」駄目だ。こんなこと、あって良いはずがない。葵さんから離れなければ――。


 俺は自分の身体をストレッチャーからなんとか引き剥がそうと、縦へ横へと身体をよじった。ガタガタと言う音と、葵さんの足音だけが響く。


 そして、葵さんは、固定された俺の左腕の前に立った。葵さんは強く歯を食いしばりながら、大きく息を吐いている。葵さんの口からは、唸り声のような音が定期的に発せられているだけで、その内容は言葉なのかすら定かでは無かった。


「あおいさ――」葵さんと名前を呼ぼうとして、俺は息を呑んだ。


 葵さんの目。涙を流し続けるその目からは、一切の感情が消えていた。


 本当に、葵さんは俺の指を――。


「さあて、楠原くん、君はどの指が良いと思うかね?」黒田はまるで余興の簡単な謎解きであるかのような軽さで、そう尋ねた。


「楠原くん、掌や指先の皮膚感覚は、薬指の中央を境に分かれていることを知っているかい?」


 黒田はまたもや大学教授然とした態度で、人差し指を天井に向けて回した。


「つまり、手の神経を切断した後の回復過程を観察するには、薬指を使うのが最も面白い結果が得られそうだということだ」


 それから黒田は葵さんの方を一瞥し「では葵くん、滞りなく実行してくれたまえ」とだけ言った。葵さんは言われるがまま、俺の左手を取ろうとする。


「やめて、ください……」俺の声は震えていた。恐怖と怒りが混ざり合って、どうにかなってしまいそうだった。こんなこと、どう考えてもあってはならない。一刻も早く、止めないといけない。


 俺は固定されている左手の指を必死に動かして、逃れようとした。だが、そんな抵抗は意味もなく、葵さんは俺の左薬指の先を片手で握った。葵さんの手は、恐ろしく冷たい。彼女の指がかすかに震えているのが伝わってくる。


――そして、左薬指の付け根に冷たい刃先が当たる。


「ング、アァ、ハッ……ハァッ……!」


 寒い。身体中が震えている。葵さんの手と、当てられた刃先から伝わる冷たさが、身体全体に広がっていく。


 なんで、こんなことになっているんだ?


 歯と歯が震えて、カタカタと頭の中で音を立てている。


 加えて、寒いはずなのに、額からは汗が流れる感覚があった。


「フゥ、フ、ゥ……」葵さんの呼吸は不規則で、荒々しいものになっていた。それは恐怖を抑えるためか、狂気に飲み込まれまいと抵抗しているためか。


「アオイ! お願い止めて!」レイナの絶叫も、自らの感情も、全てをシャットアウトするように、葵さんは固く瞳を閉じた。


「裕樹、ごめんね……」その声はひときわ優しく、震えていた。


 葵さんはそれだけ呟いて、切断器具を持つ手に力を――


「葵さん、待って――」


 俺の思考は痛みで塗りつぶされた。


「グあァァアぁぁぁぁ!」


 痛みの波が左薬指から身体全体へと急速に広がり、俺は咆哮した。


「ギゥ、ウウゥぅぅぅ! ハァ、はァ、アァ!」


 次の瞬間、何か金属製のものが地面に落ちるコーンという音が響いて、暴力的な概念に支配されていた俺の意識の一部が解放された。


「ひ……ひ……!」その音は辛うじて葵さんから発せられているものだと分かった。うまく呼吸ができていないのか、奇妙な音が葵さんの喉の中で鳴っている。葵さんの声はやがて切迫したものへと変わっていく。


「ひぃ、く、くく……あぁ、は、は……!」呼吸が上手くできていないのかもしれない。


「おめでとう、葵くん」黒田の愉快そうな声が耳に響いた。「君は困難な選択と実行に耐え、理想へと一歩踏み出したのだ」


「あぁ……は、く……」葵さんの呼吸は徐々に弱々しいものになっていった。一方俺は、身体中の感覚がなくなり、今まさに意識がチカチカと点滅しかけていた。


「君の友人の指1本を犠牲にして、大切な妹が君の元に帰ってくるのだから、安いものだ、ハハハ!」


「ヒロキ! 誰か! 早く止血して!」レイナの叫ぶ声。


「アァぁ……」頭の中でいくつもの火花が次々に弾けていく。視界がぼやけては鮮明になり、白みがかっては色が戻りを繰り返す。左手の感覚は痛みを通り過ぎ、もはや熱さ以外の何も感じなくなっていた。


「葵、さん……」


 葵さんは地面にしゃがみこみ、両手で頭を抑えていた。その両手は大きく震え、目は焦点が合っていない。その足元には血のついた器具が落とされていた。


 そうか、俺は、本当に、指を――。


「く、うっく、は、は……」葵さんは、小刻みに引きつけのような嗚咽を漏らしながら、言葉にならない声を出している。


「はは、さすがに刺激が強かったようだね」黒田はそう言うと、指をパチンと鳴らした。「諸君、葵くんを別室に案内したまえ」


 黒田の声に従い、研究員たちが半ば強引に葵さんの両脇を抱える。


「うぅ……葵、さん……」


 辛うじて絞り出すことのできた掠れた声に、葵さんは返事をすることはなかった。そして、研究員たちに連れられて扉の向こうに姿を消した。

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