15ー5 影に潜む者
「ククク……」シグマは心底楽しそうに笑った。「ここに来て、まだそんな軽口を叩く余裕があるとはな」
「なら――見せてもらおう!」シグマが地面を蹴った。その脚力に、地面の砂埃が高らかに舞い上がる。押しのけられた空気が、弾丸の発射音めいた鳴動となる。
ふたりの距離は四メートルほどあった。それはシグマにとってはゼロにも等しい距離だろう。瞬きの後には、俺の視界はシグマの右手で埋まっていた。
「く……っ!」俺は背後に跳躍し、突きだされた右手をかろうじて回避する。
「まだだっ!」
俺の動きを読んでいたのか。シグマの追撃は早かった。俺のバックステップに追いすがるように、シグマもまた歩みを進める。突きだした刃をいったん引き戻し、今度は袈裟に斬撃を放つ。大きく後ろに伸びる一撃は、いとも簡単に俺の間合いを捉えていた。だがそれはこちらも予想済みだ。
「てやぁッ!」俺は足が着地するや否や、更に大きくバックステップした。シグマの袈裟切りは、俺の鼻先をかすめるだけに留まる。
「く……逃げるばかりか。腰抜けめ」シグマは苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「はぁ……はぁ、はぁ……」
俺はよろめく体躯を立て直しながら、ゆっくりと後ずさりをした。腹の底から湧き上がってくるビリビリとした感覚は、ずっと続いている。そうだった。この感覚だ。シグマの動きは、さっきより見えてきている……!
「貴様がそのつもりなら……」
シグマがそう呟くと、次の瞬間、ゆらりとシグマの身体が揺らいだように歪み、まるで闇の中に溶けるようにして消え去った。
まただ……来る!
「くたばれぇッ!」声は背後。回り込まれた。
ぞわりと背筋が総毛立つ。前に倒れこむように、身体を地面に沈める。空間ごと両断するような、苛烈な横薙ぎ。ヂッ、とかすかな音がした。俺の髪が切り裂かれた音だろう。
肝を冷やす時間すら惜しい。とにかく距離を離さなければ。
俺は地面に倒れた姿勢のまま、前方に身を転がしてシグマから離れようとする。
「いい加減に、しろォッ!」シグマの怒声とともに、頭上から刃が降り注いだ。シグマの右手の刃が俺の左脚をかすめる。
「ぐ、ぁ……っ!」だが、かすめただけなのに、ぞぶりと足の肉を持っていかれた。
熱い血が噴き出す感覚。
「ぐ、ぅ……」痛みに思わずうめき声が出る。
シグマは無様な俺の姿に、ひたすら苛立っているようだった。
「どうした、立ち上がれ。お前の力はその程度か!」
「うるさい……!」俺は、左脚をかばいながら立ち上がった。
そして、左脚を引き摺りながら、駅ビルの出口へと駆けていった。
「また逃げる気か……!?」奴はそう呟くと、再びその気配を闇の中に消した。
俺はとにかく足を早め、駅ビルの外に身体を滑り込ませた。だが――外には、既にシグマが待ち構えるようにして立っていた。
「お前、いつの間に……」
「いい加減、学習しろ」シグマはつまらなそうに言葉を吐き捨てた。
正面、駅から離れる道はシグマに塞がれている。俺は横目で周囲の状況を確認した。どこか……逃げられる場所は……。
「本気を出せ! 力を見せろ! 死ぬぞ!」
シグマは強烈な踏み込みとともに、右手の刃を切り上げる。地面の砂埃を竜巻のように巻き上げながら、鈍い月光が闇夜を舞う。
「く……そぉ……っ!」
俺はタイミングを合わせて、後ろに全力で飛んだ。回避こそできたものの、傷ついた左足のせいでバランスを崩した――。
――そうだ。これで良い。
着地した先の段差に足が絡み、俺はさらによろめく――そこは、駅前広場のイベントステージだった。俺は、ステージの残骸に足を載せていた。
「今度こそ追い詰めたぞ」シグマは苛立ちを隠せない様子で、影の中に姿を消した。
俺は自身に残ったあらゆる力を振り絞り、イベントステージの上へ逃げ込んだ。だが、案の定と言うべきか――シグマはすぐに影から現れ、俺の前に立ち塞がった。
ちょうど、イベントステージの中央に。
「……くそっ」俺はシグマにしっかりと聞こえるように言った。
「残念だ。貴様とはもっと楽しい時が過ごせるものと思っていたが――買いかぶり過ぎだったようだな」
シグマは、腹立たしい様子から一転、心底悲しげな様子で肩を落とす。そして、すぐに右手の刃を構え直した。
「期待した分、腹立たしい」シグマの表情が愉快そうに崩れる。「せめて、死に際で楽しませろ。苦しませて殺してやる」
これから始まる残虐行為に心躍るシグマの様子が、薄明かりの中でもよく見て取れた。そして、シグマが、高らかに右手を振り上げる――今だ。




