15ー4 影に潜む者
店内に入り、再び自動ドアを閉じる。
廊下側の壁はガラス張りで、外から中が見えるようになっている。客席――は駄目だろう。机の間から見えてしまう。なら、カウンターだ。俺たちは奥のカウンターへと走った。
カウンターの奥は、レードルや食器類、まな板やナイフなどが散乱していた。爆発事件のパニックを物語っている。それらを踏まないように足を置き、身を屈めて息を潜める。
「これで少しは時間を稼げるはず。ライトを消して」レイナは俺のMRDを両手で押さえながら囁いた。
俺がライトを消すと、入り口付近にある非常灯だけが、ほんのりと辺りを照らしている状態になる。わずかな薄明かり。駅ビルの闇は深く、このまま自分が押し潰されてしまうんじゃないかという妄想が不安を誘った。隣のレイナのかすかな息遣いが、俺にとって何より頼もしく思えた。
「今日のアイツは、何だかこれまでと様子が違って見えたな……」不安を振り払うように、俺は呟いた。
シグマは、まるで瞬間移動でもしているかのように、現れては消えていた。シグマの動きが素早すぎて、ただ辺りが暗かったせいでそう見えただけなのか、それとも――レイナも神妙な面持ちで頷いた。
「ええ、確かに、不思議な動きをしていたわね……。突然消えたり現れたりしているように見えた」
「……あれがヤツの持つ能力、ということか?」
「可能性はある」
奴の能力。俺がまだ把握しきれていない力を、奴は自在に操っている――それだけで、途方もない技量の差を感じる。
「そうなると……やっぱり、正面から闘おうというのは無謀ね」
「そうだな……」俺は小さく溜息をついた。
外の通路から、かすかな足音が聞こえた。レイナと顔を見合わせる。
カツ――カツ――。
奴も書店の外に出てきたようだ。その足音はかすかではあるものの、高らかに鳴らされている。おそらく、わざと響かせているのだろう。俺たちの不安を煽り、戦いへと誘うために。
(――遠くに行け。遠くに行け)
息を殺して、俺はただ祈った。
カツ――カツ――。
その願いが通じたのか、やがて足音は遠ざかっていった。深いため息をつきかけて、やめる。シグマはまだいる。終わった訳ではない。俺は努めて小さな声で、レイナに話しかけた。
「シグマのやつ。何か、情報を持っているような口ぶりだったな」
「そうね……。私たちにとっても、もはやシグマだけが唯一の情報源でしょう。何としても情報を聞き出したいところね」
果たして、そんなことは可能なのだろうか。あのシグマを俺たちに従わせることなど――。
「無理だ、そんなことは」思わず弱音を吐いた俺に、レイナは首を横に振った。「不可能じゃないわ。とても難しいことだけれど」
「今は向こうのペースに乗せられてる」レイナは小さく息を吐いた。「何とか隙を生むしかないわね」
「けど、一体どうやって……?」
俺の言葉に、レイナはあごに手を当てる。それはレイナが深く思考するための姿勢だと、俺は少しずつ理解してきた。
「ヒロキの言う通り、シグマは様子が違った……前に会ったときと違って……それはなぜ?」
レイナは小さく呟きながら、思考を巡らせている様子だ。
「……体調? いえ、前も様子は同じだった……。なら、環境? ……この前の記念館と、ここの環境の違いはなに……?」
「お、おい、レイナ?」レイナは俺の心配する言葉を無視して、さらにしばらく考え込んだ後で、顔を上げた。
「……ねえ、ヒロキ。一つ、試してみたいんだけど」
レイナは俺の耳に唇を寄せた。
そこで語られたのは、まさに一か八かと呼べるような作戦だった。
「勝算はあるのか?」
「そうね」控えめだが確信のある表情で、レイナは頷いてみせた。「なるべくあなたが時間を稼いで、うまく誘導してくれれば」
少なくともレイナの頭の中では、シミュレーションができているらしい。その真剣な眼差しに、俺も頷き返した。
「わかった。その賭けに乗ろう」
「待って」と彼女は手のひらを俺の眼前に突き出した。「“賭け”にはしないで。あなたの判断で危険だと思った時には、作戦を放棄して、逃げるのを優先して」
「大丈夫だ。葵さんを連れ戻さなきゃならないんだ。慎重にやる」
何しろ、そらのとも約束したんだ。俺たち全員が無事な姿を、必ず見せてやると。
「そうね。最善を尽くしましょう」
レイナは俺の目をまっすぐ見て、強気に微笑みながら頷いた。
「武器が要るな……」
俺はカウンターの下に刃渡り5センチ程度のナイフがあるのを発見し、それを拾った。無いよりは良いだろう。シグマに武器の存在を悟られないよう、ジーンズのポケットにそれを隠す。レイナが身を屈めながら、カウンターから客席の方へと滑り出た。俺もそっと後を追う。
「あとは、奴がどこにいるかだな……もし――」レイナが「しっ」と鋭く俺の言葉を切った。
すると――カツカツと、靴を踏み鳴らす音が近づいてくる。シグマはどうやら、俺たちがまだ遠くには離れていないと踏んだらしい。勘が鋭い。
足音が近づく。一歩。二歩。三歩――やがてその足音がスープ店の前で止まった。周囲に静寂が訪れる。
次の瞬間、内臓の底に響くような低い轟音が響いた。
「……っ!」驚愕の声を何とか噛み殺す。
轟音は途切れない。外から、ガラス壁を奴が叩いているのだ。不定のリズムは不協和音となって店内に反響し、こびりつくように耳朶に残響する。歯を食いしばって耐える。レイナも、手を口に当てて必死にこらえていた。ガラスは何度も何度も叩かれ、今にも突き破られてしまいそうだ。
あいつは、俺たちがここに隠れていることに気付いている――気付いていながら、面白がり、恐怖を与えるためにガラスを叩いているのかもしれない。思い返せば、先ほどの書店でのときもそうだ。奴は明らかに、俺が攻撃を仕掛けてくるのを待っていた。シグマは戦って、蹂躙して、その上で俺たちを殺すつもりなのだ。
そう思うと、全身が粟立つような怒りがこみ上げてきた。その直後、腹にチクチクと電流が流れる感覚がし始めた。流れる血が熱を持ち始めている。シグマにとっては、俺たちの命は道端の石よりも軽いものなのだろう――ふざけるなよ。
腕に確かな力がこもる。視界が赤くなる。
「レイナ。ガラス、割るぞ」
「え?」
俺は立ち上がり、客席の椅子を引っ掴み――それを思い切り、ガラスの壁に向けてぶん投げた。耳障りな破砕音とともに、ガラスが驚くほど大きく砕け散った。
「なにっ!?」外からシグマの驚愕の声。俺はその勢いのままに、割れたガラスの隙間から外へと飛び出した。
シグマは、スープ店のすぐ外にいた。鋭い眼差しが俺を捉えている。飛んできた椅子を叩き落したのか、シグマの足元には木片が四散していた。
「フン。逃げた訳ではなかったか」
「当然だ」
「その心意気は褒めてやろう」その声は愉快そうに弾んでいる。「……だが、何か企んでいるようだな?」シグマは一転して不機嫌そうな声になり、口の端を歪めた。
作戦会議の時間があったことくらい、奴にもわかるだろう。だが、やるしかない。
「レイナ、逃げろ!」俺はシグマから目を離さないまま、声を上げた。
その言葉を合図に、ガラスの穴からレイナが飛び出てくる。彼女は俺の背中側の通路――駅ビルの外側へ駆け出してゆく。
「おい、あの女は……」つられて動こうとするシグマを、俺は両手を広げて止めた。
「放っとけよ。お前の相手は俺だろう」俺は敢えて挑発的な言い方をした。
「……なるほど、いい度胸だ」シグマの視線が再び、俺に注がれる。狙い通りだった。
いいぞ、このまま目を逸らさなければ……。
「……今度こそ貴様の本気が見られるんだろうな」
恐怖と焦燥に囚われそうになる心を奮い立たせて、俺は言い返した。「それはお前次第だ」




