15ー3 影に潜む者
「奴は強い。正面から闘っても勝てる相手じゃないわ」
「でも、このままじゃ……!」
「諦めろなんて言ってない」小さな、しかし確かな声で言われて、俺ははっと我に返った。
「いったん退くというのも手の一つよ。ここは不利。外に出ましょう」
そうだ。レイナの言う通りだ。焦るな。落ち着け。奴の言いなりになるな。
シグマの様子を見ていると、あいつはあくまで、俺から仕掛けさせたいようだ。今も両手を広げたまま、こちらの様子をうかがっている。
俺はシグマから注意を逸らさないようにして、MRDの薄明かりを頼りに、店内に視線を這わせた。ひとつだけ、半分程度まで空いたシャッターがあるのに気付いた。俺たちが店内に入る時に潜り抜けてきた場所だ。書店から脱出するとなると、そこに行くしかなさそうだった。
だが、今はシグマが、立ち塞がるように通路にいる。入口までの距離はわずか7メートルほどだが、それが絶望的に長く感じる。
「外に出るためには、あのシャッターまで行くしかない。けど……どうやっていけば……」
「大丈夫」レイナは冷静に言った。「ヒロキは私を引っ張って、全力で走って」レイナには何か策があるらしい。
「おい! 何をこそこそと話してる?」シグマが苛立った様子で言った。
レイナの方を見ると、すぐ横にあった平積みの棚から、シグマに見えないよう注意しつつ、一冊の雑誌を手に取るのが見えた。何を考えているんだ?
「来ないのなら、こっちから行くぞ――」シグマの動き出す気配を皮切りにレイナが叫んだ「走って!」
レイナの合図と同時に、俺は走り出した。レイナの手を強く握り、地面を蹴って前方へ突進する。
「……っ、フン、間抜けが!」突然の動きに、シグマの反応が一瞬遅れる。だが、すぐに右手を振りかぶり、俺の突進に合わせて必殺の一撃を放とうとしている。強烈な風圧でシグマの周囲の本が煽られ、花吹雪のように表紙が躍る。
「……てやっ!」レイナが小さな気合とともに、先ほど掴んだ雑誌をシグマへ向けて投擲した。大きくて軽い紙束であるA4の雑誌は、空気抵抗でぱらぱらとページがめくれ――シグマの視界を塞いだ。
「なにっ!?」シグマは反射的に、迫り来る雑誌を防御する姿勢を取った。「くそっ!」やみくもに振り下ろされた右手の刃は、投擲された雑誌を切り裂いた。雑誌はバターのように真っ二つに裂かれて、地面に落下する。
軽く手を振るっただけなのに、恐るべき切れ味だ。だが、その動作のおかげで、奴に隙が生まれた。
「ヒロキ!」レイナの呼びかけに俺も大声で「ああ!」と応じた。
先ほどのレイナの一撃で生まれた隙を逃さず、俺たちはシグマのすぐ脇へと目掛けて駆け抜ける。
「舐めるな!」しかしシグマの追撃も早い。いち早く俺たちの意図に気付いた奴は、半身を翻して再び右手を振り下ろす。闇の中、それよりも暗い刃が不気味に煌く。だが、その動きくらいは俺にも予想できる!
「……うぉおっ!」頭を屈めて、地面すれすれを走る。刃は、俺の髪の毛を数本持っていくだけで過ぎ去っていった。
「……くっ!」シグマの苛立ちはいまやピークに到達しているようだった。
今度こそできた絶対的な隙に、俺は全速力でシグマの横を駆け抜け、そのまま正面のシャッターへと突っ込んでいく。
「このままいくぞ! 転がれ!」シャッターの寸前で、繋いだレイナの手を前方へ思い切り投げる。
レイナはすぐに意味を理解してくれた。レイナは突進の勢いのまま、半分空いたシャッターの隙間へ向けて、身体をねじ込むように前転し、先に外へと転がり出た。
「逃げる気か!」シグマが怒りに満ちた形相で、俺の方へと向かってくる。
俺は咄嗟に周囲を見回すと、近くに辞書が落ちているのを見つけた。俺はそれをすぐさま拾い上げ、シグマに投げつけた。
「うぉおお――ッ!」
シグマが距離を詰めるよりもわずかに早く、辞書が奴の腹部を殴打した。怒りのまま一直線に駆けるシグマは、回避できなかったのだろう。辞書の一撃は、シグマに想定以上の強い衝撃を与えられたようだ。
「ぐっ!?」
シグマが床に倒れこむ。致命傷には到底及ばないが、ここから逃げるだけの時間は稼げそうだった。
俺は急いで背後のシャッターを潜り抜けた。
「ヒロキ!」先に出ていたレイナが、心配そうに駆け寄ってくる。
「俺は大丈夫だ。とにかくここから出るぞ!」俺たちは、どちらともなく再び手を繋ぎ、駅ビルの入り口に向かって駆け出そうとした。
「待って」レイナが駆け出すのを制止した。「このまま逃げても、すぐに追いつかれてしまう」
レイナはすぐ横にあるスープ店を指さした。「いったん、ここに隠れましょう」
「いくらなんでも近すぎないか?」
「シグマは私たちが遠くに行ったと思うでしょう。その裏をかくの」
俺はなるほどと思った。もしかしたら時間を稼げるいい手になるかもしれない。
スープ店の入り口は、自動ドアが少し開いた状態になっていた。電気が止まっているから、少し力を加えれば手動で開けられるだろう。俺は自動ドアの隙間に指を入れて、ドアをこじ開ける。俺とレイナはドアの隙間から店内へと身体を滑らせた。
「外から見えないところに隠れよう」
「わかった」




