15ー2 影に潜む者
レポートに書かれていたシグマという名を呼ぶと、男は片眉を少しだけ上げた。
「ほう。どこかで知ったらしいな」シグマの表情が無感情なものに戻っていく。「たが……そんなものはただの記号に過ぎない」
「記号?」
「俺にとっては意味も持たないということだ」シグマは冷たい目つきで、俺たちを見下ろしている。
「葵さんはどこだ?」
「どうして俺がその質問に教える必要がある?」
「画像を送ってきたのはあなたじゃないの?」とレイナ。
「画像?」シグマは目を見開くと、次の瞬間、ニヤリと笑った。「そうか。そんな風に、貴様たちは誘い出されたということか」
「それを信じ込むとは、貴様たちはつくづく単純で愚鈍なのだな」
葵さんはこの場所には居ないというのか。それならば、今この瞬間、葵さんはどこに居るのだろうか。シグマはその答えを知っているかのようにも思える――。
「それよりも……」シグマは俺たちの方へ一歩踏み出した。今日こそ、貴様の本当の力を見せてもらえるのだろう?」
「はっ……?」
「しらばっくれるな。俺はそれだけを楽しみにやって来たのだからな」
その口ぶりは少し挑発的で、かつ愉快そうでもあった。
「……話はそれからだ!」言い終わるや否や、シグマは地面を蹴った。
爆発的な加速で俺との距離を詰めると、右手を水平に薙ぎ払う。暗闇の中を、シグマの刃が残像を伴いながら閃く。
「う……っ!」
俺は反射的に、レイナを抱え込みながら地面に伏せた。その直後、頭上スレスレのところを刃が通り抜ける感覚。まるで、空気ごと抉り取るかのような圧力だ。一秒でも遅ければ、俺の頭は胴体と離れていたことだろう。背筋に震えが走った。
「レイナ、こっちだ!」俺は必死でレイナの手を引き、転がるよう倒れている本棚の向こうに逃げた。
荒れた書店というのは不幸中の幸いだ。身を隠す場所は無数に存在する。とにかくシグマと距離を取って、俺自身の力を発動させる時間を稼がなければ。
「それで逃げたつもりか?」
シグマの憐れむような声が店内に響き、直後その気配が、消え失せた。
それは比喩などではなく、物理的な事象として、本当に消えてしまったのだ。本棚の影から覗き込んでも、先ほどの場所にシグマはいない。煙のように消え失せてしまった。
「シグマ……どこだ!? どこに行った!?」
「ここだ」シグマの低い声が近くで聞こえた。次の瞬間、まるで元からそこに立っていたかのように、目の前に大きな影が出現した。“出現した”としか表現できないほど、瞬きの合間に突然現れた。嗜虐的な色に満ちた瞳が俺を覗き込む。
「残念だったな。貴様の浅知恵など、お見通しだ」言いながら、シグマは右手を袈裟に振り下ろす。
鈍色の淀みを撒き散らすように、重い風切り音をたてながら刃物が迫る。
「くっ……レイナ、避けろ!」俺はレイナを抱えたまま、右へ身体を投げ出した。
「きゃあぁ……っ!」レイナの悲鳴が聞こえた直後、刃物が頬のすぐ横をかする。またしても、少しの判断の遅れが死を招きかねない一撃だった。再び背筋に悪寒が走る。床に倒れこむ俺を見て、シグマは蔑むように鼻を鳴らす。
「貴様がそんなザマじゃ面白くないじゃないか? ほら、どうした?」
シグマはこの状況を楽しんでいる様子で、挑発的な態度を取り、立ち向かって来いと言わんばかりに両手を大きく開いた。
「くそっ……奴のあの動きは、何なんだよ……!」
あの瞬間移動じみた動きは、一体どうなっているのか。わからない。しかし、このままではジリ貧だ。
「ちくしょおォ――ッ!」腹の底に力を込めながら立ち上がり、俺はシグマへ突進する。
「ヒロキ!」レイナの声が背後に遠ざかっていく。
俺は最初にシグマと出会った夜に感じた、体内に沸き上がる熱を思い出す。思い出そうとする。ピリピリして、ゾクゾクして、視界が沸騰するようなあの感覚を。
「なんだ? その動きは」シグマが、ハエを払うような気怠そうな動きで、右手を振り払う。
力が上手く発動できていれば、それを回避してシグマへ肉薄することができたはずだった。しかし、そうはならず、俺はシグマの右手をもろに食らった。
「……くっ、そっ!」
だが、咄嗟に俺は踏みとどまり、バックステップでやり過ごす。シグマの一撃が、力なく振るわれていて遅いのが幸いだった。刃が鼻先を擦る。右手に運ばれた風が頬を叩いて、俺の頭を揺さぶる。
(――今の俺には、シグマの動きが見えない。読めない。反応できない)
おまけにバランスを崩してしまい、俺はたたらを踏みながら床に転がってしまう。
「無様だな」シグマの呆れた声が響いた。「貴様はその程度ではないだろう。本気を見せてみろ」シグマは再び無防備に両手を開いている。
俺は力が使えない。このままではまずい。俺はいい。だが、レイナが殺されてしまう。それだけは避けなければ!
(玉砕覚悟でぶつかるしかないか――?)
焦って立ち上がろうとする俺の腕を、隣のレイナが強い力で引き止めた。
「ヒロキ、あんな挑発に乗っちゃダメよ」
俺の耳元で、レイナはそっとささやいた。




