2ー1 記憶との対話
扉の向こうには、別世界が広がっていた。
上品な木製の棚には本や小物が並び、座り心地の良さそうなソファにはいくつものクッションが置かれている。温かい色合いの照明で照らされた室内には、言葉では形容しがたい生活の匂いのようなものを感じることが出来た。
あたかもここで暮らしている誰かが存在していて、その部屋に招き入れられたような、そんな感覚だ。
「なんか、ばーちゃん家を思い出すな」
「ああ。すごい懐かしい感じがする」
翔と共に部屋の中へ一歩踏み入れると、背後の扉が自動的に閉まった。すると、いよいよここは誰かの部屋なんじゃないかという感覚が強くなった。
先程の通路に居た時はひんやりとした空気を感じたが、ここに一歩踏み入れた瞬間、流れる空気がとても暖かくなったようだ。あの通路に並ぶ扉のひとつひとつが、どこか別世界に繋がるゲートなのではないか、そんな錯覚すら覚えた。更に中へと歩いていくと、気になるものを発見した。
「これ、なんだ?」俺は翔に尋ねた。ソファの前のローテーブルに、セピア色の小さな機械らしきものと、その横にカードが一枚置かれているのが見えた。
「それは電話機ってヤツだな。昔はこれを使って通信してたらしい」
「俺、使ったことないぞ。どうやって使うんだ?」
「その、上に付いてる“受話器”を取って、耳に当てるんだよ」
翔に言われるがまま、受話器と呼ばれるモノを手に取ると、思っていたよりずっしりとした重さがあった。これで長時間通信をするなんて、なんだか疲れてしまいそうだ。にわかに信じがたいが、それを耳に当ててみる。しばらく当て続けてみたが、何も聞こえてこない。
「これ、何も聞こえないぞ……」
「はは、まあそうなるよな」
困惑している俺をよそに、翔は余裕たっぷりな態度だ。
「ほら、そこの下にあるスロットにカードを差し込んで通話するんだよ」
翔に示された場所を見ると、電話機には数字や記号が記されたボタンが配置されており、その下に長方形型のスロットが付いている。更に、その横にあるカードの近くに、使い方の説明が書かれている紙も置いてあった。
「わかった。試してみる」
電話機の横に置かれたカードを手に取り、スロットに差し込んでみる。するとカードが吸い込まれ、電話機の上にARディスプレイが現れた。
「ほら、もう一度受話器を耳に当ててみろよ」
翔が右手を受話器のような形にして、耳に当てるジェスチャーをしている。
「あ、ああ」
受話器を耳に当てると、先程は聞こえなかった小さな音が連続的に聞こえてきた。
「何か聞こえるか?」と雨宮。
「小さい電子音みたいなのが、かすかに」
「もうすぐ、そらのちゃんの声が聞こえてくるぞ」
翔の声には、期待と不安が入り乱れている。俺は思わず身構える。そらのはどんな風に、俺と話すのだろうか。俺はどんな風に、そらのと話せば良いのだろうか。
「あ……」
受話器の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。目の前のARディスプレイに、見知った女の子の姿が映った。この姿は、間違いない。そらのだ。
「ヒロくん……」
柔らかな声が、俺の耳の奥へ広がっていくのを感じる。随分と久しぶりにその声を聞いたような気がして、たったそれだけのことなのに、胸の中で滞留していた何かが、一気に流れ出てしまいそうだった。
少し間を置いて、なんとかそれをやり過ごす。そして、声が震えないように気をつけながら、口を開いた。
「そらの……ええと、久しぶり……」
我ながら、なんて気の利かない言葉なのだろう。ずっと用意していたはずの言葉はどこかに隠れ、代わりに口をついたのは、当たり障りのない言い回しだった。
「もう、来てくれないのかと思ったよ」
そらのはそう言って、少し呆れたような、少し不貞腐れたような、そんな顔をした。
「……遅くなって、すまん」
「いいよ。今日、こうして来てくれたんだもんね。翔くんもありがとう」
そらのにお礼を言われた翔は、屈託のない笑みを見せた。
「へへ、裕樹をここに連れてくるのに苦労したんだぜ」
「えー、そうなの? そんなにわたしと話がしたくなかったってこと?」
突然のそらのの攻撃に、俺はドギマギした。
「いや、そういう訳じゃ……」
「なんだか傷ついちゃうなあ」
何も言い返せない俺を見かねて、翔が慌てて口を開く。
「あんま責めるとマジで落ちこんじゃうから、ほどほどに許してやってよ」
「あはは、そうだね」
ARディスプレイに映るそらのはそう言って、楽しそうに笑った。俺の知っているそらのの姿が、そこにあった。これが記憶データだということは理解している。コネクトと呼ばれる技術がそらのの記憶データを元に、彼女の思考パターンを再現し、そこから導き出される言葉や表情といった計算結果を出力しているのだ。
それでも、目の前でリアルタイムに言葉を発し、こちらの言葉に反応して表情を変える姿を見ていると、そらのはまだどこかで生きていて、このARディスプレイの向こう側にいる彼女と本当に会話をしているような錯覚に陥ってしまう。
「はあ~あ、なんだか遠くなっちゃったね」
まるでピクニックが中止になって拗ねる子供のようなトーンでそらのは言った。
「そらのは、そう感じるのか?」
「うん……ヒロくんは違うの?」
「……俺はどちらかというと、思ってたより近い感じがするよ」
「そうなんだ、なんだか変な感じ」
「ああ、そうだな……」
お互いに小さく苦笑してから、言葉が続かずに沈黙が訪れた。こんな沈黙までもが、やけにリアルな会話のやりとりに感じられる。まるで数カ月前まで続いていた日常そのものだ。とりとめもない会話が出来ることが、こんなに嬉しいとは思っていなかった。出来ればこのまま、そらのともっと話を続けていたい。そんな気持ちが、俺の中でどんどんと膨らんでいくのがわかる。
しっかりしろ、楠原裕樹。
こんな、何でもない会話をしにここに来たわけじゃないはずだ。死んでしまった大切な人に対して、もっと言うべきことがあるはずだろう。言えなかったこと――こうなる前に言うべきだったことが。
「あのさ」
「うん」
言葉が続かず、再び沈黙が訪れる。言葉にしようとする度に緊張してしまい、ブレーキのようなものが掛かってしまう。この楽しいひと時を崩してしまうのが怖い。そうして迷っている間にも、そらのは何も言わずに静かに俺の言葉を待っている。あの夕焼けに染まったケーキ屋の中で突きつけられた拒絶を、もう二度と味わいたくない。
――どうして、あの日そらのはあんなことを言い出したのだろう。
しっかりしろ、楠原裕樹。
今日はそれを確かめるために来たはずだ。俺はなんとか胸の鼓動を押さえつけ、心の奥でずっと引っかかっていた言葉を引きずり出し、それを口にした。
「そらのは――どうしてあの時、“もう会わない方が良い”って言ったんだ?」
「え?」
そらのはARディスプレイ上で不思議そうに首を傾げている。
「それ、どういうこと? わたしが言ったって……」
意を決して放った俺の言葉に対して、そらのの反応にはまるで手応えがなかった。
「や……いつものケーキ屋で最後に会った時、俺にそう言っただろ? あまりに急だったから、俺結構ショックでさ……」
俺の言葉を聴いて、そらのは少し考えているような素振りをしてから答えた。
「……ヒロくん、ごめん。わたしには何の話なのか……」
この話自体をしたくなくて、わざととぼけているのかもしれない。しかし俺には、もはや言葉の奔流をせき止めることは出来なかった。
「俺は……俺がそらのの話をもっとちゃんと聞いてさえいれば、こんなことにならずに済んだのかもしれないって……あの時からずっと思ってるんだ」
堰を切ったように次々と言葉が口から溢れていく。
「今更こんなこと言ったって遅いのはわかってるけど、せめて……あの時、酷い言葉をぶつけてしまったことを謝りたいんだ」
本当にこんなこと、今更言ったってどうしようもない。もうそらのはこの世に居ないのだ。これは俺の自己満足でしかない。だが、それでも言わずには居られなかった。
「そらの、ごめんな……」
ああ、もっと早く言うべきだったな――言葉にして、改めてその事実が質量を持って俺の中に沈んでいくのを感じた。そっと顔を上げると、そらのはまだ腑に落ちない表情をしていた。
「ヒロくん……わたし、ヒロくんに何か酷いことを言われた記憶なんてないよ」
そらのは、俺の気持ちを真っ向から否定しないように気をつけているのだろう、相当言葉を選んでそう答えた。
「そらの……」
まさか、そんなはずはない。
あの日起こったことは、全て事実のはずだ――。
しかし、そらのの表情は真剣そのものだ。あの日のことを根に持っていて、わざと忘れたフリをしているのだろうか? いや……そんなこと、あるはずがない。そらのがそんなことをする人間ではないことは、俺自身良く知っているじゃないか。俺は翔の方を振り返った。
「翔……これは一体どういうことなんだ。俺の記憶と、そらのの記憶が噛み合っていない。確かにあの日、本当にあった出来事なのに」




