13ー1 背中合わせ
ふと気が付くと、目の前は灰色で塗り尽くされていた。
ここはどこだ?
冷たい地面の感触に身震いしながら、俺は身体を起こす。目を凝らしてみるが、周囲には何も見えない。建物も、植物も、人間も。命あるものの営みが何一つない、灰色の世界だ。
「そらの……?」
俺は何気なくそらのの名を呟いた。返事はない。もう1度周囲を見回してみたが、辺りにはやはり、何も見えない。誰かが居る気配すらない。ただどこまでも、灰色の地面が広がっている。
俺はおそるおそる、足を前に踏み出した。だが、周囲の景色は一向に変わらない。ただの灰色の世界が続いているだけだ。
どこまで歩けばいい?
どこまで行けば、そらのに会える?
その問いに答える者は、誰もいない。
低い地鳴りが聞こえて、突然、巨大な壁が地面から伸びてきて行く手を阻まれる。
「なっ……!」触ったり叩いたりしてみたが、かなり強固な壁のようだ。
仕方ないと右を向いて進み始めるが、すぐにそこからも壁が伸びてきて肩をぶつけてしまった。思わず後ずさると、今度は背中にぶつかる感触があり、振り返るとまた壁が――
「何だよ、これ……」
いつの間にか俺の四方はがっちりと高い壁で囲まれていた。俺を包囲している壁は、音もなく俺の方へ移動しており、囲んでいる空間を徐々に狭く埋めていく。
「くそ……!」
俺は両手で壁を押し返そうとするが、踏ん張っている両足が後ろにずれるだけで、壁の動きは少しも遅くなりそうにない。
このままでは、壁に押しつぶされてしまう――。
そうこうしているうちに、俺ひとり分程度のスペースしか無くなっていた。俺は必死に壁を開こうと、両手を突っ張った。すると、突如壁の動きが止まった。
「ふう――」
――助かった。
そう声に出そうとした瞬間、壁が物凄い速さで迫ってくるのが見え、直後、視界は真っ暗になった。
* * *
「はっ……!」目を開くと、そこは見慣れない和室だった。
しばらくして、自分がそらのの家の客間に居るということを思い出した。夕食を終え、葵さんがこの客間に三人分の布団を敷いてくれたのだ。
「……夢か」とても嫌な夢だったような気がするが、内容はぼんやりとして思い出すことは出来ない。
重苦しい感触を振り払うように首を振ってから、右隣に陣取った翔を見ると、清々しいくらいに爆睡している。この様子だと、布団に入った瞬間からおそらく一度も目を覚ましていないだろう。左隣のレイナは、ずっと俺に背を向けた姿勢で眠っている。昼間に言い合ってから、気まずさはぬぐえないままだったのだ。
(これからどうすべきなのか――)
その答えはまだ見つかっていない。考えれば考えるほど、思考が濁っていくような気がする。
少し横になってみたが、眠れそうになかった。俺は立ち上がり、そっと布団を抜け出して、そらのの部屋の前へと向かった。部屋の扉は開かれたままになっていた。
考えてみれば、夜にそらのの部屋を訪れるのは初めてのことだ。室内は窓からの月の薄明かりに照らされてぼんやりと光り、昼とは違う空気を湛えていた。照明を点けようか迷ったが、結局そのままにして足を踏み入れる。
俺はそらのを呼び出そうと思いついて、MRDを操作しようとした。しかし、目に飛び込んできたのは、充電切れを示すマークだった。
「しまった……」
普段はWi-Fi経由で充電しているため、バッテリー残量を意識することはほとんど無い。だが、昨夜シグマから逃げた後は、誰からの通信も来ないようにWi-Fi接続をオフにしていたのだった。昼間も翔のノートPCとだけ通信できるようにしていたため、充電のことを全く気にしていなかった。
「仕方ないか……」寝る前に充電しなきゃな、と思いながら、俺はそらののベッドの近くまで歩み寄る。
そっと布団に触れてみると、ひんやりとした感覚が手に伝わる。もうこの場所にそらのの体温が宿ることはない。しばらくそのまま布団を撫で続けているうちに、だんだんと俺の中である感情が芽生えてきた。
初めて湧き上がってくるその感情の渦に、俺は戸惑った。
そらのがもう、この世に居ない。
それは何度も何度も確かめ、自分に言い聞かせてきたことだ。ここ数日は、そらのの記憶と話しながらも、少しずつ覚悟をしようとしているつもりだった。だから知らず知らずのうちに、心のどこかで油断していた。こんなにも、そらのが居ないという現実が、不意に胸に突き刺さってくるとは思っていなかった。
「そらの……」床に跪き、硬く拳を握り締める。
腹の底から叫び、涙を流せたらどんなに楽だろうか。でも、俺はそうすることが出来ずにいた。ただ歯を食いしばり、荒い息を吐き続けた。
「ヒロキ」
背後からささやくような声が聞こえて、振り返ると部屋の前にはレイナが立っていた。
「眠れないの?」
レイナは俺の顔を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ああ……ごめんなさい。ソラノとふたりで話していたのね」
「いや、俺ひとりだよ……」
ようやく絞り出した声で答えると、レイナの両足が躊躇うように遠ざかっていくのが視界の端に見えた。こんな情けない姿を見せてしまって、さぞかし呆れたのだろうと、頭の片隅で思う。
俺は姿勢を変えて、そらのの布団に向かい合う形で座り込んだ。すると、背中にそっと、何かが触れた。やがて温かい体温がTシャツ越しに伝わってくるのがわかった。
「レイナ……?」レイナは無言で、俺の背中に自分の背中を合わせたまま寄り添っていた。
俺はその体温に導かれるように、そらのと過ごしたたくさんの情景を思い出した。
猫のぬいぐるみを両手に抱えて嬉しそうなそらの。
この家で葵さんの料理を食べて笑っているそらの。
高校の卒業式で、写真を撮ろうと俺と翔の腕を強引に引っ張ったそらの。
どのそらのも、とても遠くの存在に思えた。
どれだけの時間が経っただろう。レイナは、俺が落ち着くまでそのままの姿勢で居てくれた。
「レイナ……その……悪いな」
「気にしないで」
レイナからの返事は、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな、小さなものだった。それでも、背中から伝わってくる温かい体温は紛れもなく本物だ。
俺は、これまで誰にも言わなかった、というより、隠していた思いを話したくなった。
「レイナ、聞いて欲しいことがある」
背中越しにレイナが頷くのを感じながら、俺は口を開いた。




