12ー3 瑞梨葵
早朝ということもあってか、何とか人目を避けながらこの家の前まで辿り着くことが出来た。しかし、いざ瑞梨家を前にすると、その扉を開けるのに躊躇してしまう。ここから先に進めば、本当に葵さんを巻き込むことになるのだ。
前回はためらいがなかったレイナも、今は無言のまま、神妙な面持ちで立っている。背後に居る翔もまた同様に無言だった。しかし、ここで長い間立っていれば、それだけ人目につく危険も増すことになる――。
これは俺が提案したことだ。ならば、俺が自分の手で葵さんを巻き込むのだ。
俺はゆっくりと、インターフォンに指を近づけた。確かに、チャイムの音が鳴った。やけに大きく音が鳴ったような気がして、思わず周囲を確認してしまう。
――大丈夫、誰も通っていない。
チャイムの音が鳴り終わり、俺はじっとインターフォンを見つめる。静寂の時間が、とても長く感じる。葵さん、どうか早く出てくれ――。
「はい」数日前にも聞いた声が、インターフォンから流れてきた。
「あの……! 楠原ですが」
「えっ、裕樹!?」
「すみません、俺たち、どうしても――」
「ちょっとそこで待ってて!」
俺が言い終わらないうちに葵さんはそう言うと、インターフォンが切れた。ほどなくして扉が開き、葵さんが走り出てきた。
「裕樹! 心配してたのよ」葵さんは俺の手を取り、ぎゅっと握り締めた。
「……翔のその脚はどうしたの?」葵さんが翔の傷に目を留め、顔をしかめた。
「はは、ちょっとした怪我で」
「ちょっとどころじゃないでしょ、血だらけじゃない!」
葵さんは全員を見回した。「とにかく皆、早く中に入って!」
「すみません……俺たちが来たことで、葵さんまで危険に巻き込んでしまう可能性もあるし、迷惑だとは思うんですけど……」
「何、バカなこと言ってるの」葵さんは一瞬だけ、怒ったような顔をした。が、それから穏やかに微笑んでくれた。
「今は何も言わないで良いから」
「葵さん……」
「誤解が解けるまで、いくらでもここにいたらいい」
「……ありがとうございます」
葵さんは玄関の扉を明け、片手を扉の向こうへ差し出した。「早く入りなさい。さあ」
俺はレイナとそっと視線を交わし、頷き合う。葵さんは俺たちを拒まなかった。そのことが、俺たちの強い緊張感や焦燥感を、少しだけ溶かしてくれたような気がした。
* * *
葵さんに翔の傷の手当てをしてもらってから、俺たちはそらのの部屋にやってきた。
「とりあえず、座るか……」
まずは翔をベッドに近い側のクッションに座らせ、俺はその向かいに座った。レイナは自然に、俺の右側に腰を下ろした。
「なんか不思議な感じだな。俺たちがまた、そらのの部屋にいるなんて……」
「まあな……」翔はそう言うと、包帯が巻かれた脚を投げ出した。
そして、何か言葉を探すように俺を見るが、しばらくすると俯いた。
「翔……?」
翔は黙ったままだった。珍しく、口数が少ない。その様子を見て俺も、言葉を探して黙り込んでしまう。レイナはそんな俺たちの顔を交互に見ながら、いつも通りの口調で言った。
「アオイが私たちを受け入れてくれて良かった」
「そうだな……他の皆は、大丈夫かな……」俺は朱音やエマ、春菜のことを思い出す。我ながら情けないが、安全な場所に落ち着いたことで、ようやく彼女たちのことを考えられるようになった。
そういえば、春菜と初めて会った時に、MRDの連絡先を交換していたことを思い出した。その連絡先にメッセージを送ってみようか――俺は自身のMRDを左手で撫でながらそう考えていた。
(それにしても――)
俺たちを追ってきた警察官たち――あれはどう考えてもまともではなかった。そして今、そのまともではない集団の中に、まだ春菜は居ると考えるのが妥当だろう。向こうが俺たちからの連絡を待ち構えている可能性もある。であれば、少なくとも数日は連絡を取り合わない方が良いだろう。そう結論を出して、俺はMRDから手を離した。
「アカネとエマのふたりなら、なんとか逃げられたと信じたいけど……心配ね」とレイナ。朱音とあんなことがあったというのに、レイナは彼女ふたりのことを本当に心配しているようだった。
「あのふたりはあの男と対等にやり合ってた……春菜だって警察の訓練を受けてるはずだし、死ぬ確率が一番高そうな俺たちがまだ生きてるんだから、あの三人だってまだ生きてるはずだ」
もし、彼女たちに何かあったら――そんな可能性を考えるだけ不毛だ。俺たちがJCOを追い続けている限り、どこかでまた会える可能性がある。そうしたら、また騒がしく感じるくらいの時を過ごすことだって出来るはずだ。
「確かにそうね……三人とも、無事であることを願いましょう」
「ああ、きっと無事だ」
俺たちがそんな話をしている間、翔は口を開かず、心ここにあらずと言った様子だ。そんな翔にレイナがまた、いつも通りの口調で話しかける。
「翔、怪我はどう?」
「あ、ああ……葵さんがしっかり手当てしてくれたし、そのうち良くなるさ」翔は軽く笑みを浮かべたが、再び口を噤んでしまった。
「でも、ちゃんと休まないと傷が回復しないわよ」
「……」翔の返答は無かった。
「ヒロキも、せっかくだから今のうちに横になっておいたら?」
「それは、そうだよな……」
レイナの淡々とした口調の奥から、さりげない気遣いが伝わってくる。
だが、とても寝転がろうという気分にはなれずにいた。
――足りない。
俺たちの世界を満たしていたはずのものが、決定的に欠けてしまっている。おそらく、翔もそれを感じているからこそ、沈黙しているのだろう。
「そうだ……」この部屋に居るべき人物を呼び出すために、俺はMRDを操作した。程なくして、そらのの姿が目の前に現れた。
「あれ……? ここ、わたしの部屋?」現れたそらのは、一目で自分の居る場所がどこなのかを悟ったらしい。
そっと、俺の左側のクッションにMRDを置く。そらのは俺たちと同じように、その場に座る姿勢になった。
俺はあの大学院大学で起こったことをそらのに説明した。
「そっか……。きっと、みんな無事だよね、うん」
そらのは自分に確かめるようにそう言ったあと、周囲を見回して言った。
「なんだか、ここでこうして皆で集まるのも、すごく久しぶりな感じがするね……」
そらのはゆっくりと部屋の中を見回すと、懐かしいものを見るように目を細めた。
「翔くんはよくその場所で、ノートPCで何か難しそうなことに熱中してて、ヒロくんはあっちの壁にもたれかかって、考え事をするのが好きで……」
「それに」
そらのはレイナに微笑みかけた。
「今はレイナちゃんも居てくれて……なんかこういうの、いいね」
「そうね、この部屋……ソラノらしくて私も好きよ」それはレイナの本心なのだろう。
「そう? ふふ、嬉しいな……」そらのは言葉とは裏腹に、寂しげな表情を浮かべた。
いつもと同じ場所から見える、いつもの景色。家具の配置も置いてある雑貨も、そのままだ。そして、この部屋にはそらのが居て、翔が居て、俺が居る。新たに知り合えたレイナだって居る。
それは完璧なはずの世界。
――だが違うのだ。もう今は、何かが決定的に違うのだ。
この部屋に全員が揃ってしまったことで、改めてそのズレを容赦なく突きつけられてしまったような気がした。そらのも翔も視線を別々の場所に向け、黙り込んでいる。
レイナはしばらく俺を覗き込んでいたが、不意に、姿勢を正してこちらの方を向いた。




