12ー1 瑞梨葵
俺とレイナは、ふたりで翔を支えながら、なるべく細い路地裏を選んで歩き続けていた。明るみ始めた空の下、俺たちが吐く息が妙に近く聞こえる。
「……大丈夫か?」俺は隣にいるレイナの横顔を見た。
「ええ、まだ平気……」レイナの表情にも疲労が色濃く出ていたが、彼女は気丈に答えた。
東総研大学院大学での一件を切り抜けてから、俺たちは符中市から一旦離れるべきだという結論を出した。だが、符中市の中心部から離れる方角へと進む度、その途中で警戒中の警察官に見つかりそうになり、引き返すということを何度も繰り返した。どうやら、符中市全体を取り囲むように、厳重な警戒態勢が敷かれているようだった。
符中駅以外の駅から電車に乗ってしまうという手も考えた。だが、駅の構内はどこも防犯カメラで監視されており、それをかいくぐるのは至難の業だ。そもそも、改札を通るにはMRD認証による運賃支払が必要不可欠なのだ。
例えそれらの問題を全てクリアしたとしても、怪我を負った翔を連れて歩くのは、やはり目立ちすぎる。これらの理由から、電車に乗って逃げるという選択肢も却下された。
そうして、符中市の中を堂々巡りしているうちに、夜が明けようとしていた。
「ヒロキこそ、そろそろ休んだほうが……」浅く疲れた息を吐きながら、レイナは滑り落ちそうになった翔の身体を肩で背負い直す。
「いや……俺は大丈夫だ……」そう答えたものの、実際のところ俺もレイナも、体力の限界が近いように見えた。
だが、あの男がもう俺たちを追ってこないという確信がない以上、ひたすら逃げ続けるしかない。
――だが、いつまで?
何故あの男はいつも俺たちの前に現れるのだ。
「ううっ……」翔が小さく呻き声を上げた。
「痛むか?」
「なんの、こんくらいツバつけときゃ治るって。ハハ……」
いつものような軽口を言おうとはしているが、翔の言葉には力強さが無く、苦痛が滲んでいる。視界の端に見える翔の太もも――男に切り裂かれた方の足だ――が、ジーンズの色と翔の血の色が混ざり合って、グロテスクな色彩になっている。冗談を言えるレベルなど、遥かに超えてしまっているだろうに――。
しかし、そのことを否定しても、翔はまた無理に明るく振舞うだけだろう。俺は口を噤み、翔を背負い直そうとしたが、しびれを切らした様子のレイナが口を開いた。
「カケル、全然大丈夫なんかじゃないでしょ」
「いやいや、ほんと、全然大丈夫だって……」予想通り、レイナの言葉を翔は否定する。
「そう」レイナは短く答えてから、「ヒロキ、こっちへ」と翔の身体ごとゆっくりと、左の方へ引っぱってきた。
「お、おいレイナ……」
「いいから、こっち」
有無を言わさぬレイナの態度に、俺は無言で従う。レイナに引かれるままに細道の左側の方へ進んだ。高い壁と壁の隙間に、辛うじて俺たちが身を寄せられそうな狭いスペースがあった。
「ここで少し休む。異論は聞かない。OK?」
「……はは、レイナちゃんには、敵わないな」毅然としたレイナの態度に、さすがの翔も降参したようだった。
俺はレイナと共に翔を地面に座らせ、ふたりを道路側から遮るように腰を下ろした。アスファルトに腰を下ろした途端、全身から疲れが滲み出してくるのを感じた。
レイナが「あっ」と呟き、上着の内ポケットから小さい包みを取り出した。
「ああ、やっぱり溶けちゃってるわね……」
レイナはその包みを俺に差し出してきた。「ほら、これ。チョコレートよ」
小さなチョコレートがひとつずつ包みに入っているタイプのものだ。その商品名は、コマーシャルで何度も目にしたことがあった。
「疲れた時は甘いものでしょ?」レイナが疲れまじりに微笑む。
「本当はもっとちゃんとしたものを食べたほうがいいんだけど……っていうか、溶けちゃってるけど……」
「いや、充分だ。ありがとな」
レイナが小さく頷くのを見届けて、俺はチョコレートの包みを受け取る。包みを持った感触からして明らかにチョコレートは溶けている様子だったが、レイナなりの気遣いが伝わってきて嬉しかった。こぼれないように上手く包みを動かして、何とかチョコレートを口の中に収める。口の中に糖分が少しずつ溶けていくと同時に、心地よさが身体全体を巡り出していく。
「チョコレートがこんなに美味しく感じたのは、生まれて初めてだ」
考えてみれば、まともなものを口にしたのも、睡眠を取ったのも、遥か前のような気がする。
「疲れてる証拠ね。当たり前だけど」
レイナはもうひとつのチョコレートの包みを開けて、「ほら」と翔に促す。
「フゥ……」翔はレイナに促されるままにチョコレートを口に入れながら、辛そうに顔を歪めている。
「カケルの傷、早く手当てしたほうが良い」レイナは俺にだけ聞こえるようにそう言った。
レイナの言葉に頷いた俺は、右手の親指を曲げてカードを手に持つようなジェスチャーをする。MRDに搭載されたカメラがその動きを検知し、右手の中に手頃なカードサイズのARディスプレイを表示させ、ホームウィンドウを映し出す。
親指を左右にフリックして、いくつものアイコンが並ぶウィンドウを切り替え、地図を表示するアプリケーションのアイコンのあるウィンドウに移動する。親指でアイコンに触れると、短いロード画面の後、3Dで表現された周辺の地図が空中に投影される。
地図の右上に浮かんでいる虫眼鏡のマークに触れ、検索機能を呼び出す。検索のためのテキストフィールドが表示され、その下に仮想キーボードが現れる。この仮想キーボードに合わせてタイピングをすると、文字入力を行うことが出来る。
これはMRDに限らず、書店の図書検索や、役所での申請手続きなど、あらゆる場所で使われるようになった。未だに本物のキーボードを叩いた時のような手応えを得ることは出来ないが、場所を取らず、どこからでも文字入力を行うことが出来る利便性に軍配が上がった。
俺は「外科」「病院」という単語を入力し、検索を掛ける。赤色のピンが3Dマップ上に次々と刺さっていく。GPS機能をオフにしているため、自分たちの正確な現在地はわからないが、最後に近づいた駅の場所からある程度は推測できた。俺たちはどうやら、昨日抜け出した大学院から東南に7キロ程度離れた場所に居るようだ。
(一晩歩き続けて、結局この程度の距離しか離れることが出来なかったのか――)
その事実に落胆しながら、とにかく翔を連れて行けそうな病院を探す。
「外科のある病院は……半径1キロ以内に二軒あるな。どっちも診察時間は午前九時からか……」
MRDで時間を確認すると、今は午前七時四十八分。病院が開くまでには一時間以上待たなければならない。
「他に救急受付があるところは……」MRDで再び検索を掛けようとしたとき、翔の手が俺の腕を掴んだ。「おい、待てよ」
「病院なんて人が大勢集まってくるし、待合室にはニュース映像だって流れてる。裕樹もレイナちゃんも、そんな場所に顔を出したら大変なことになるぞ」
そんなことは、言われずともわかっている。俺はレイナの方をちらりと見る。レイナは俺の視線に気づくと、小さく頷いた。レイナだってわかっているんだ。だが、あの男の前に進み出た俺を翔が放っておかなかったように、俺も翔を放っていく気など無かった。
翔があのように感情を剥き出しにする姿を、俺は初めて目にした。そらのが亡くなった後でも、翔はそれまでと何ら変わっていないように見えた。軽いノリで、冗談を言う、いつもの翔だ。
俺はそんな翔の様子を見て、ちょっとした苛立ちを感じたこともあった。そのメンタリティは、ある意味で羨ましいとさえ感じたこともあった。俺が衝動的な自殺未遂を起こした時、その後はいつも病室のベッドの上で目が覚めた。それはいつも、翔の通報によるものだった。目を覚ませばいつも、翔がキーボードを叩く音が聞こえてきた。そしていつも、偶然見つけたかのような素振りで軽口を話し始める。
俺はそんな翔の本心に気付かなかった――というのはきっと嘘なのだ、と今なら思う。
気づかない振りをして、自分ひとりだけが悲劇に酔っていただけだ。そんな自分自身が愚かで、情けない。翔はいつも、こんな馬鹿な俺が本当に死んでしまわないように、注意深く観察してくれていたのだ。自分の悲しみを横に置いて。
記念館で、俺が刑事を名乗る男に自ら向かっていこうとした――それは自殺行為と何ら変わりがないだろう――時も、翔は止めてくれたのだ。
今度は俺が翔を助けなければならない。




