1ー2 瑞梨そらの
高校一年になるタイミングで、俺はこの符中市にやってきた。俺は自分の周りにあるいくつかの問題から逃げるために、ひとりで暮らすことを選んだ。
何がきっかけかは忘れてしまった。きっかけなど、そんなものだろう。
とにかく、中学三年生になって少し経った頃だったと思う。同級生たちが明らかに俺を遠ざけるようになった。それまで友達だと思っていた奴らでさえ、俺のことを無視するようになっていった。彼らからすれば、遠ざけているというような感覚はなかったのかもしれない。
やがて、誰かが俺を馬鹿にするような発言をするようになった。それを冗談交じりに否定すると、教室のどこかから乾いた笑い声が聞こえてきた。そんなやり取りが続いていくうちに、日に日に言葉の暴力性はエスカレートしていった。冗談のレベルを越えた言葉の数々を、何とか受け流そうとした。だがある日、俺は我慢しきれなくなった。
――何なんだよ!
かつて友人だったクラスメイトに向かって、俺は叫んでいた。教室全体に叫び声が響いた後、やけに静かになったことを覚えている。直後、俺は恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
何故こんな大きな声で叫んでしまったのかと思った。今思えば、俺は助けを求めていたのかもしれない。自分はここに居るんだということに、気付いて欲しかったのかもしれない。感じている苦しみを、理解して欲しかったのかもしれない。相手は暫く黙ったままだったが、あからさまな嫌悪感を込めて舌打ちをした後、ばつが悪そうに顔を背けた。そして、面倒くさそうな口調で言った。
――お前、もう話しかけてくんな。
訳がわからなかった。誰かに理由を教えてもらいたかった。
だが、その誰かが現れることはなかった。俺はただ、黙ってやり過ごすことしか出来なかった。俺の存在は、彼らの中で“不要”と判断されたのだと思った。今まで感じたことのない虚無感に苛まれ、それは卒業式が終わる瞬間まで続いた。
それと並行して、両親の仲が日に日に悪化していった。詳しい原因は最後まで俺には教えられなかったが、母の言動が徐々におかしくなっていったことだけは、外から見ていても明らかだった。ついに母は家事をするのが困難な状態になり、病院に入院した。父の仕事は元々転勤が多く、小学生の時は様々な学校を転々としていた。そのことが母に負荷を掛け続け、結果として母の中の何かが壊れたのだろうと俺は予想している。
母はどれほどの期間、悩み続けていたのだろう。俺が経験したような無視や罵倒を、母も誰かから受けていたのだろうか。その真相は母の心の中にだけある。
相手が何を考えているのかがわかれば良いのにと思った。母が心の中に何を抱えているのかがわかれば、あんなことにはならなかったかもしれない。
俺がひとり暮らしをしたいと打ち明けた時、父はすぐに承諾してくれた。父も母の対応で疲れ果てている様子だった。俺が家を出て行く日、父は何を考えていたのだろう。
そんな中学時代の経験があり、高校に入ってからは誰かに声をかける気になれなかった。たとえ誰かと仲良くなれたとしても、いつ手のひらを返されるかわからない。そう考えると、誰かと新たな関係を築くことが無意味であるかのように感じられたのだ。ましてや友達だと思っていた人間から、“もう居ない”ことにされるのなんてまっぴらだ。ひとりでいる孤独より、誰かから突き放された後の孤独の方がはるかに辛い。
あっという間に俺はクラスで孤立した存在になった。そんな俺が最初に言葉を交わすことになったのが、翔と、そらのだった――。
「あ……」
よく見知った建物が見えて、俺の意識は現実へと戻された。白いレンガ造りの小さなケーキ屋ゼルコバ。今日も、扉からはほんのりとオレンジ色の明かりが漏れている。翔もそれに気付いたようだ。
「ああ、ゼルコバかー。そう言えばテストかなんかあった後の打ち上げはいっつもココのケーキだったよな」
「俺はケーキの味よりも、お前らにケーキを奢ったことばかり思い出すけどな」
期末試験の点数を競い、最下位の者がみんなにケーキをおごる。そんな勝負を提案したのは俺だ。試験に対するやる気を高めようという軽い気持ちでの提案だった。乗り気の翔に対し、そらのはやんわりと断ろうとしていたのを覚えている。このふたりが成績上位者であることを知ったのは、その後だった。勝負の結果は言うまでもない。そして、期末試験の度になんだかんだで勝負は決行され、なんだかんだで毎回俺が奢る羽目になっていた。なんだかひどく昔のような、懐かしい思い出だ。
「あ、あのこと、やっぱ根に持ってる? 仕方ねーよな、そらのちゃんは常に学年トップだったし」
「お前も全然解けなかったーとかほざきながら、いつもサクッと良い点取りやがって」
「ハハハ。裕樹はさー、本気になってなかっただけなんだよ」
「そうか? 俺はいつでもそれなりに本気のつもりだったけど」
翔が昔を懐かしむような視線を空に向けて、深呼吸してから、俺の方を再び見た。
「いや、そらのちゃんもよく言ってたじゃん。『ヒロくんが後ろの席の時は、どの瞬間から寝に入ったかすぐわかっちゃうんだよ~』って」
「そうだったか?」
「言ってた言ってた! 『ヒロくんってば相当な居眠り星人だよ~』って」
「うーん……」
当時どんな会話をしたのか、自分がそこまでやる気のない人間だったのか、正直言って全く覚えていない。
でも、これだけは確かに言える。そらのと俺たちの間にはいつも温かな時間が流れていた。そして――あの日、その時間が崩れてしまった。
――ヒロくんとわたしは、もう会わないほうがいいと思う。
脈絡なくそらのに告げられた、別れの言葉。
またか、と思った。
また俺という存在は、誰かの記憶から不要な存在だと判断されたのか。
激しい感情が濁流のように頭の中で渦巻き、溢れる言葉を口の中に留めることが出来なかった。気付くと、俺はそらのに向かって何かを叫んでいた。何を言ったのかは覚えていない。ただ、酷い言葉だったような気がする。相手を傷つけるために放つ言葉だ。
そして、俺はそらのをそのままにして、ひとりで店を出た。最後に見たのは、そらのが悲しそうに俯いている姿だった。あの光景は、俺の中に色濃く残っている。
そらのは、自分にまとわりつく俺という存在が鬱陶しくなったのかもしれなかった。しかし、たとえそうであったとしても、あの時そらのを置き去りにしなければ、彼女は今でも生きていたのかもしれない――。
「おーい、どうしたんだよー?」
ケーキ屋の前から動こうとしない俺を、翔が怪訝そうに振り返った。
「……悪い、なんでもない」
「そうか? なら行こうぜ。このままじゃ夜になっちゃうよ」
翔に促され、ケーキ屋から漏れる明かりに背を向けて歩き出す。
その時、どこからか視線を感じた。
振り返ると、いつの間にかケーキ屋の前にひとりの少女が立っていた。巫女の装束を身にまとったその少女は、射るような視線で俺の方を見ている。
――以前どこかで会ったことがあっただろうか?
記憶を辿ってみたが、答えは出なかった。いや――こんなに人がたくさん居るんだ、通りすがりの俺を見ている訳はない。
勘違いだ――そう思った直後、少女はまっすぐにこちらに向かって歩いてきた。その凛とした態度を前にして、俺はその少女から目をそらすことが出来なくなっていた。
何てことはない。ただすれ違えばいいんだ。俺は目を伏せ、少女が通り過ぎるのを待とうとした。
「彼女は選択した」
俺の耳元で、少女の囁き声が響く。
「え……?」
“彼女”とは誰のことだ?
「次はあなたが選択する番です」
“選択”とは何のことだ? そもそもこの子は誰だ? 様々な疑問を頭に巡らせていると、少女は目を伏せて歩調を速めた。
「おい、ちょっと……」
君は誰だと尋ねようとして、少女の方を振り返る。しかし、そこにはもう少女の姿はなかった。背後の通りを見渡してみても、それらしき姿はなかった。
「おーい、裕樹くん? 何をキョロキョロしてるのかな?」
代わりに、不思議そうな顔でこちらを見ている翔の姿があった。
「翔か……」
「そうだよ俺だよ。なんで残念そうな顔になってるんだよ」
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「もう、後ろを付いてきてるんだと思って俺めっちゃ喋ってたのに、さっきの完全に独り言だったってことじゃんか~」
「ああ……悪い」
翔は両手を頭の後ろで組みながら、おちゃらけた態度を崩さずにこう言った。
「ほんと頼むぜ~。コネクトセンターの開いてる時間終わっちゃうって。ほらほら~」
翔は両手で俺の背中を押して、なんとか前進しようとしていた。さっきの少女は一体何だったんだろうという疑問を残したまま、今度こそ俺は歩き出した。




