1ー1 瑞梨そらの
重い瞼を開くと、茜色に染まる天井がそこにはあった。
消毒液のかすかな匂い。
「ここは……」
自分の身体を確認しようと首を持ち上げてみる。まず目に入ったのはARディスプレイだ。空間上に表示された半透明の平面の中に、様々な数値や文字が並んでいる。次に自分の身体が見えた。清潔そうなシーツが被せてあり、両腕だけがシーツの上に置かれている。左手首には白い包帯が巻かれているのがわかった。
また病室か、と心の中で独りごちる。俺は何度かこの光景を見たことがあった。
ぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりするにつれて、どこかからカタカタとキーボードを叩く音が聞こえるのに気付いた。音のする方を見ると、友人である雨宮翔がベッドサイドに座り、旧型のノートPCを一心不乱にいじっているのが見えた。俺が見ていることに気付いたのか、翔は画面から顔を上げた。
「よっ」
場にそぐわない、やけに明るめな声に、俺は何も良い返答を思いつかなかった。
「何だよー、その辛気臭いカオは。俺がここに居るのが、そんなに不満か?」
「今日は何月何日だ?」
翔はノートPCの画面にちらりと目をやり、「2030年、8月26日だ」と答えた。
「お前がこの病院に搬送されてから……えーと、まだ6時間くらいだな」
俺は「そうか……」と力なく返答するのがやっとだった。
――また失敗した。
包帯を巻かれた左手首を見ながらそうつぶやくと、翔は乾いた声で笑った。
「ははっ。お前って凝りねーよな」
「……何だよ」
翔は両手でろくろ回しを扱っているかのように動かしながら言う。
「リストカットは数ある自殺手段の中でも一番確実性が少ないやり方だって、前回も忠告してやっただろ」
「どうせ前回もお前が通報したんだろ」
「ったく、こっちの身にもなれって。せっかくの夏休みが台無しじゃんか~」
「放っといてくれ。お前はお前で、勝手に夏休みを満喫していればいいんだ」
翔は今度は両手を左右に広げ、こちらを見て笑った。
「それが出来てりゃ、ここまでお前との腐れ縁が続いてねーよ」
俺はどうにもテンション高く返答できるモチベーションがなく、ただ「悪かったな」とだけ答えた。
「悪いと思うんなら、今度線形代数のレポート手伝えよな~」
俺と翔は互いの顔を見てから、どちらからともなく、ふたりとも苦い笑みを浮かべた。
「なあ、裕樹」
翔はふと真剣な表情で俺を見つめた。
「お前さあ、そんなにそらのちゃんの元へ行きたいのか?」
翔の言葉を聴いた途端、胸の奥側からぞわぞわした感覚が全身に広がっているのが分かる。俺は翔から目を逸らし、窓の外に目をやった。
――そらの。瑞梨そらの。
三年間、一緒に時間を過ごしてきた女の子。彼女は先月、突然この世を去ってしまった。
警察からは、そらのは符中公園近くの路地で、自ら車に飛び込んだのだと聞かされた。その知らせを聞いてから、俺はいつしか左手首を切る衝動を抑えられなくなっていた。
俺は左手首を包帯の上からそっと右手で押さえる。
「……どうだろうな。自分でもよくわからない。ただ、突然そらのに呼ばれてるような感覚に陥る時があるんだ。そうなるともう――」
包帯に当てた手に、力を込めると、かすかな痛みが身体を走った。こうしてると、少しだけそらのに近付けるような気がするのだった。翔はしばらく俺を見つめていたが、おもむろに自分の左手首に触れた。俺と同じように傷を押さえたのではない。MRDを起動させたのだ。
Mobile augmented Reality Device――MRDは最新の携帯型情報端末だ。バングル状になっており、腕に装着して使用する。音楽を聞いたり時間潰しのためのゲームをするアプリケーションなどもあるが、ARディスプレイと呼ばれる仮想画面を空中に表示させて、そこに投映したウェブサイトや映像を見たり、他の人と連絡を取ることが主な用途だ。
マイナンバー制度が二年前に廃止されてからは、個人情報の管理もMRDで行われることになり、コンビニや交通機関での電子マネー決済、何らかの施設やサービスを利用する際に個人を証明する時にも使われている。今や日本でMRDを使っていない人はほとんど居ないだろう。翔のように常日頃ノート型のPC端末を持ち歩いているのは、どうしても仕事で必要になる人か、あるいは一部のガジェット好きだけだ。
突如、俺の目の前にARディスプレイが表示された。そこにはウェブサイトらしきものが映し出されている。「見ろ」と翔がウェブサイトのある1点を指さしている。
「これは……」
「コネクトセンター。知っての通り、亡くなった人たちの記憶が電子化され、保存されている場所だ」
「ああ――」俺は歯切れ悪く曖昧な返答をした。
コネクトセンター。その施設が誕生するまでのいきさつは、ある意味“負の歴史”だ。今から三年前の二〇二七年、とある大学の研究から、人間の記憶を電子情報として保存する技術――“e-Memory”が生まれた。
それは人々の生活を大きく助ける、画期的な大発明のはずだった。しかし、その期待とは裏腹に、e-Memoryを悪用した犯罪が多発した。例えば、他人の記憶を無断で電子コピーし、その人生を覗き見るという行為。それはある種の性癖を持った人間をターゲットとした娯楽として売買されるようになった。
他では代用できない刺激を得た人間は、より強い刺激を求めるようになるもので、その行動はどんどんとエスカレートしていった。最終的に、おおよそ考えうる限り最悪の出来事が起こった。
拉致され、激しい暴力を振るわれた被害者の記憶が克明に記録されたデータが、ネット上にばらまかれたのである。これは後に「ナイトメア・メモリー事件」と呼ばれた。事件の首謀者とされる犯人は逮捕されたものの、事態を重く見た政府は、生存中の人間の記憶を電子化することを固く禁じた。
そして、真に役立つe-Memoryの活用法を模索した結果、死者の記憶を電子化して保管するための国営施設「コネクトセンター」が設立されたのだ。コネクトセンターでは、死者の記憶データにアクセスし、通話ができる。亡くなってしまった家族や大切な人の声をもう一度聞くことが出来るのだ。
「記憶の保存期限が死後49日と決められてることは、お前も知ってるよな」
「……ああ」
「そらのちゃんが亡くなったのは先月の13日。記憶が電葬されるのは今月の31日。つまり――そらのちゃんの記憶と話ができるのは、もう一週間もないんだよ」
記憶の電葬――簡単に言えば記憶データの消去だ。遺された人たちに与えられた心の整理期間、そんなところだ。
「そらのちゃんの記憶がこの世からなくなってしまう前に、声を聞いてみたらどうだ」
翔の言葉に、俺は反応することが出来なかった。
「そうすれば、お前の中でわだかまってる何かがほどけるかもしれないだろ」
「それは……そうかもしれないけど……」
俺は口ごもった。
なぜ、そらのを止められなかったんだろう。
なぜ、そらのを死なせてしまったんだろう。
今でも俺は、自分を許せずにいる。
黙り込んだ俺をよそに、翔は枕元に手を伸ばした。そこには、サイドテーブルに置かれた俺のMRDがある。
「とにかく、建物の前まで行ってみようぜ。ほら」
翔は俺のMRDを手に取り、俺の前へと差し出した。
「いや、でも……」
「いいから、ほら」
数秒ためらった末、俺は翔の手からMRDを受け取った。
俺と翔は夕方の光に染まる街の歩道を歩いていた。
幸いと言えるのかはわからないが、俺が意識を失っている間に、胃洗浄などあらかたの処置は受けていたようで、多少ぼうっとはするものの、病院を抜け出すのにあまり苦労することはなかった。
東京コネクトセンターは、ここ符中にある駅から少し歩いた場所にある。2年前にこの建物が建てられた時には大規模な開館セレモニーが行われたそうだ。さっき搬送された病院からは、歩いて三十分ほどだ。
「今日は風がちょっとだけ涼しいな」
翔は何の気なしという風にそう言った。
「そうか?」
「そうだよ。ここ数日はずーっと暑かったじゃん」
ここしばらく、外の気温など気にしたことがなかった。
それから、ふたりは無言で歩道を少し歩いてから、翔が再び口を開いた。
「この道さー、通るのは結構久しぶりなんだよな、俺」
「ああ、俺もだ」
少し前までは、俺と翔とそらの、3人でよく通る道だった。俺はぼんやりと昔のこと――翔やそらのと出会う前のことを考えていた。




