0 ある命題について
もしも知覚がわたしのものでありうるべきであるならば、それは初めからすでにわたしの〈表象〉のひとつでなければならない。
――「見えるものと見えないもの」モーリス・メルロ=ポンティ
三年前の今日――この瞬間。どこで、誰と、何をして過ごしていたのか、あなたは覚えているだろうか?
そう尋ねられて、すぐに答えられる人などほとんど居ないだろう。記憶とは、絶えず追加と削除を繰り返し、時には順序が入れ替わり、変化すらしてしまう、“脳”と呼ばれる有機的なデータベースの中に格納されている情報だ。いつ更新され、いつ削除されるのか、予測することはひどく困難で、ある時点で取り出した情報が正しいのかどうかさえ不確かだ。すくい取ろうとするほどに、砂のように指の間からすり抜けていってしまうのに、音や匂い、あるいは何気なく見た情景が引き金となって、突如生々しい映像を脳裏に映し出す。
そんな記憶の集合体――あやふやな情報の集まりこそが“自分は自分である”という命題を信じるための拠り所になる。
あなたはどうしてあなたなのか?
この質問に対して答えられることはそう多くない。自身の経験の中で、あるいは先人の残した本の中で、あるいは誰かの語る言葉の中で得た情報を組み合わせて“答えだと思われるもの”を導き出すしかない。
だが、これらは全て自身の経験を語っているに過ぎない。他者の情報に触れている瞬間もまた、それを選択した自身の経験に他ならないからだ。全ては“自身の経験”という集合に内包され、得た情報は“記憶”として保存される。
ならば、“人格”とは“記憶”なのだろうか。
もしそうであるならば……果たして、“彼女”は――




