10ー1 Paz
目を開けると、まばゆい光に思わず目を細めた。
周囲は病的な程に真っ白で、床と壁と天井の区別がつかない。徐々に目が慣れてきて、目の前を凝視してみたが、やはりどこまでも白が続いているだけだった。
そもそも何故、俺はここが部屋だと認識していたのだろうか。あるいは広大なホールの中に居るのかもしれないのに。そんなことを考えていると、白い光の中から人影のようなものが浮かんできた。それはある人物に良く似た形をしている。
「どうして、そんなに苦しんでるの?」
遠くから響いてくるやまびこのような、曖昧な輪郭の声で、その人影は尋ねた。
その声は、ある人物にとても似ている。人影をよく見てみると、それは肉体を持たない、無数の塵のようなものの集合であることが分かった。塵と塵がぶつかり、あらたな塵となりながら、渦を巻いて人のような姿を形作っている。
「わたしは、ここに居るのに――」
それはとても悲しそうな声でつぶやいた。塵の集合に顔があるはずも無いが、何故か俺にはそれが悲しそうな表情をしているように見えた。
「記憶だけじゃダメなの? 肉体の無いわたしは、わたしじゃないの?」
どこか苛立っているような口調でそれは言った。それは俺に対する質問のようでもあり、自身に対する質問のようでもあった。
「答えてよ、ヒロくん」それは懐かしい呼び名で俺を呼んだ。
俺はまた声を発することが出来ないでいた。いつだって、俺は何もすることが出来なかった。それはまた悲しそうな表情をして、病的な白の中へと溶けていく。
そして、完全な白い光で世界は満たされた。
* * *
日差しの眩しさに負けて目を開けると、ウインドウは朝の景色になっている。車はどこかに停車しているようだ。
「……今、何時だ?」
MRDで確認すると、今は午前十時のようだ。どうやらかなり長い時間、眠ってしまっていたらしい。
「ん……」
そっと身体を動かしてみる。痛みはもう、ほとんど感じないレベルにまで引いていた。皮膚を確認してみると、胸に負った切り傷は薄いあざのようなものが残っているだけだった。更に、自ら左手首を切りつけた時の、無数の切り傷も消えていることに気付く。まるで、初めから傷など無かったかのように。
普通に考えれば、傷が消えたこと自体は喜ぶべきことなのだろう。だが、そらのとの距離を近づけるために行ってきた行為が、全て無かったことにされたような気持ちだった。
何かに取り残されたような心細さを抱えながら辺りを見回す。そう言えば、確か朱音が、後ろの扉の向こうにシャワーがあると言っていた。傷が消えたと言っても、血の匂いがなんとなくまだ残っているような気もして、一刻も早くシャワーを浴びたい気持ちになった。
シャワーの水を浴びて、頭の中に散らかった思考の断片も流してしまいたい。
そう思って、俺は思いっきりシャワーブースの扉を開けた――
「え……?」
ブースの中では、裸のレイナがシャワーを浴びていた。
「あ……」
目の前の状況がとっさに理解できず、その場から動けなくなってしまった。逡巡ののち、俺は今の状況を理解した。
「うわっ!」
驚きのあまり声をあげてしまった。
レイナもようやく事態が飲み込めたらしく、みるみるうちに表情を変えた。
「ちょっ、えっ!? ちょっ!?」
「し、失礼しました!」慌てて扉を閉めて、出来うる限りブースから遠ざかった。
ブースの中ではドタバタと大きな音がしている。
しばらくしてから、レイナが姿を現した。きちんと服を着ているレイナを見て、幾分安心する。
「あ、あの……」俺の呼びかけにレイナはあらぬ方向を見つめながら、黙り込んでいる。
「勝手に開けてごめん」
「べ……別にこれくらい、どうってことないわよ」
そう言いつつも、レイナは俺と視線を合わせようとしない。
「あの、ほとんど見てないから」
「ほとんどって?」
「いや、嘘です。全く、全然と言っていい……」
「シャラップ! もういい!」レイナは真っ赤な顔をして、俺の唇を手で塞いだ。
「この件はこれ以上掘り下げ禁止ね!」
「は……はい」レイナの勢いに押され、思わず頷いてしまった。
「それより……例のマイクロチップのことだけど」
レイナはそっぽを向きながら話題を変えた。
「やっぱり、マイクロチップをそのままにするか取り出すかは、もう一度真剣に考えて欲しい」
「え……?」
「昨日ヒロキが言ってたことは、聞かなかったことにする」
「俺が、死んでもいいと言ったことか?」
その問いを肯定するように一呼吸置いた後、レイナは再び口を開いた。
「でも、あの男が私たちを付け狙っているとしたら、やっぱりこの先、昨夜みたいな危険な戦いの場は避けられないと思う。その時に、そのマイクロチップがヒロキを助けることもあるかもしれない」
レイナは一度そこで言葉を区切り、目を閉じた。
「逆に、あなたを蝕んでしまう可能性だってあるかもしれない」
レイナは再び目を開いた。その目の奥には強い意志を感じさせた。
「だから、どっちに転んでも後悔しないように、ちゃんと考えて欲しい」
「そうだな……」俺は少し考えてから、さらに言葉を続けた。
「俺は……もう少し、こいつと付き合ってみようと思う。取り出したくなったら、その時はレイナに頼むから」
「そう。わかった」レイナは心なしか安心したように微笑んで息をついた。
目の前のレイナが、とっさの判断で俺を助けてくれたことは間違いない。少なくとも、その気持ちには応えても良いんじゃないか――そんな風に思った。自分でも、なぜ心境が変わったのかはわからない。でも、レイナが微笑む姿を見るのは、素直に嬉しいと思った。
「あれ? なんか、良い匂いがしないか?」ふと、キッチンの方から美味しそうな匂いが漂っているのに気付いた。
「誰か料理でもしてるのか?」
「はいはーい。僕ですよ」お玉を振りながら米倉さんが答えた。レイナとの話に夢中で、そこに米倉さんが居ることさえ気付いていなかった。
「もうすぐご飯が出来るから待っててよ」
「まるで新妻のようなセリフですね……」
匂いにつられるように、他のメンバーたちも集まってきた。海老やイカなどの魚介類がたくさん入っているピラフと、ぶつ切りの鶏肉やキャベツがコンソメスープでじっくり煮込まれたポトフ。どちらも美味しそうに湯気を立てている。
「おー! すげー! 米倉は料理上手なんだな!」朱音の目が輝いている。
「勝手に炊飯器と大鍋を使わせてもらったよ」
「大鍋なんて、ここにあったんですね」とエマ。
「ま、まあな。こうして役に立てたんだからいいじゃねーか」
おそらく普段は料理などしていなかったのだろう、朱音が決まり悪そうにそっぽを向いたところで、思わず他のメンバーたちから笑いが漏れる。
「米倉、お前いい嫁になれるぞ」竜泉寺さんが冗談混じりにそう言った。
「本当ですか? まあ警部補の嫁はごめんですけどね」
「ちょっと! ふたりとも、変なこと言ってないで、早く食べましょーよ」春菜が待ちきれない様子で食事の開始を促した。
「神咲」竜泉寺さんは今度は春菜を標的に定めた。「お前その手に持ってるあんパンの袋は何だ? そっちも食う気か?」
「いいじゃないですか! こっちとそっちは別バラです!」
警察の面々が言い合っている隣で、レイナが物珍しそうにピラフを眺めていた。
「これって……チャーハンとは違うのよね?」
「え? 何だろ、どう違うんだ?」何かと技術方面に明るい翔も、料理にいたっては無頓着のようだ。
「ピラフは生米から炊く料理で、チャーハンは冷や飯で作る、っていう違いはあるな」
「へえ。裕樹くんてば物知り~。知らなかったよな~レイナちゃん?」翔はわざと女子高生のような声色でくねくねしながらレイナにすり寄った。
「え……まあ」レイナは少し顔を赤くしながら答えた。「今回たまたま、私はこれを食べたことがないっていうだけで……」
「ええっ! ピラフそのものを食ったことねーの?」
「別にいいでしょ」
「はいはい、何の文句もございません」翔は棒読み口調でそう答えた。
「何よその言い方」
そんなレイナと翔のやり取りを聞きながら、俺はMRDをじっと見つめた。
――そらのを呼び出したい。
たとえ食べることは出来なくても、この輪の中に一緒に入って笑うそらのが見たい――なんとなく、そう思った。ただ、竜泉寺さんや米倉さんがいる前ではそれが不可能なこともわかっていた。
「……全員、配り終わったな」翔が周囲を見渡しながら言った。
「おう! じゃ、冷めないうちに食おうぜ」と朱音。
「いっただきまーす!!」大声で春菜がそう言ったあとで、全員で手を合わせてあらためて挨拶をしてから、食事が始まった。
「んー、うめー! 最高!!」翔はピラフを口いっぱいに頬張っている。
「マトモな食事は久しぶりだからな」と竜泉寺さん。
「へえ……バターの香りがいいわね、これ」レイナはピラフの匂いをひとしきり嗅いだあとで、慎重にピラフを口へと運んだ。
「エマちゃん、野菜だけじゃなくてもっとお肉も取りなよ」と春菜はエマの皿に勝手に鶏肉を盛り付ける。
「肉は、朱音にあげます」エマが先ほど盛られた鶏肉を朱音の皿へと移した。
「やったぜ! この鶏肉うめー!」朱音は何のためらいも無く鶏肉にかぶりついた。
騒がしく食事する面々を眺めながら、俺もピラフを一口食べた。材料の切り方に多少男の料理という荒っぽい雰囲気はあるが、味は美味い。まともに食べ物の味を感じたのは随分久しぶりのような気がした。
「ヒロキ、回復のためにはもう少したくさん食べたほうがいいわよ」とレイナ。
「そうだな……」
レイナに促されるように、俺はガツガツとピラフを貪り食った。ふと気付くと、米倉さんが俺たちをニコニコと見守っている。
「そんなに喜んでもらえるなんて、作った甲斐があったよ」
「それにしても意外だったな。米倉にこんな特技があったなんて」竜泉寺さんは米倉さんの方を見てにやりとした。
「米倉先輩は器用なんすよ!」春菜は得意げにそう言って、胸に付けているアクセサリを指した。「このバッジだって、先輩の手作りなんですから」
俺たちは春菜のバッジを覗き込んだ。
「へへ、可愛いでしょ。これ、米倉先輩が誕生日プレゼントにくれたんです」
「うひょー、これ、マジで手作り?」と翔。
「花びらの細かいとこまで丁寧な作りですね」エマはバッジを凝視している。
「確かに、ハンドメイドとは思えない出来映えね」レイナもうんうんと感心している様子だ。
「こういうのをチョチョイって作っちゃうって凄いよね!」
春菜はそう言ってから竜泉寺さんの方を見た。
「師匠なんて、こういうの一生無理っぽいですけど」
大柄な竜泉寺さんが身をかがめて裁縫をする様子を想像した俺は、思わず吹き出した。
「おいおい、楠原くん、今何を想像したんだ?」
「い、いえ、別に何も……」
「君に取調べをするまでもないがな。ったく、失礼だな……」
拗ねたような竜泉寺さんの言葉に、俺たちは一斉に笑った。




